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ヒクソン・グレイシーvs.船木誠勝、20年目の真実。両者の証言から考察する世紀の一戦の勝敗の分かれ目

近藤隆夫スポーツジャーナリスト
決着直後の光景。陣営から祝福されるヒクソンと、意識朦朧の船木(写真:真崎貴夫)

「ようやく長い闘いが終わりました。格闘技に答えはありませんでした。永遠に闘い続けるのみです」

その言葉を残して31歳の船木誠勝は、一度現役を引退した。ヒクソンに敗れた直後のことだった。

2000年5月26日、東京ドーム。

『コロシアム2000』のメインエベントとして行われたヒクソン・グレイシーvs.船木誠勝。

あれから、ちょうど20年が経つ。

一時的に両目の視力を失ったヒクソン

1994、95年に開かれた『バーリ・トゥード・ジャパン』トーナメントを連覇、その後、PRIDEのリングで高田延彦に2度圧勝したヒクソンは、「400戦無敗」の称号のもと当時、最強と目されていた。そのヒクソンにパンクラスのエース船木が挑んだが、結果は残せず。1ラウンド11分46秒、チョークスリーパーで失神に追い込まれてしまった。

結果だけ記すと「ヒクソンの完勝」であり「船木の惨敗」。だがそれは、観た者の記憶に深く刻み込まれる衝撃的な闘いだった。

無制限ラウンド(1ラウンド15分)、そして、いまでは考えられないがレフェリーストップがない決闘。

ヒクソンと船木は、ともに死を覚悟してリングに上がり、観衆は世紀の一戦を固唾をのんで見守った。

この試合の映像は、この20年の間に繰り返し繰り返し何度も観た。

そして、歳月を経た後の両雄の証言により、勝敗を分けた2つの重要なポイントに気づくこともできた。

緊迫感漂う中での前半、そう、8分過ぎまでは互角の攻防だった。

スタンドで組み合い、ヒクソンが船木をコーナーに押し込んだ状態が続く。

グラウンドの展開に持ち込みたいヒクソンと、スタンド戦での打撃でダメージを与えたい船木。いずれも自らのペースに持ち込めずにいたのだ。

その後、もつれ合うようにしてグラウンドへと移行する。上になったのは船木だった。右のパンチを2発、ヒクソンの顔面に叩き込み船木はスクッと立ち上がった。

マットに背中をつけて寝転ぶヒクソンと、立った状態で相手の足にキックを見舞っていく船木。

一見すると、単なる「猪木ーアリ状態」。ヒクソンがグラウンドに船木を誘っているようにも見える。

だが、そうではなかった。

ここに、1つ目の重要なポイントがあった。

ヒクソンに異変が生じていたのである。

開始から8分過ぎに迎えた「猪木ーアリ状態」。この時、ヒクソンは両目の視力を失っていた。(写真:真崎貴夫)
開始から8分過ぎに迎えた「猪木ーアリ状態」。この時、ヒクソンは両目の視力を失っていた。(写真:真崎貴夫)

ヒクソンの述懐。

「あの時、もつれ合った後に私はフナキのパンチを左目にもらってしまった。オープンフィンガーグローブだったので指が目に入り眼球が圧迫されもしたのだろう。大動脈の神経は両目をつないでいる。ダメージを受けたのは左目だったが、それにより両目の視力を一時的に失ったんだ。

何も見えなくなったことに驚き不安な気持ちにもなったよ。それでも私はパニックを起こすようなことはなかった。冷静でいられた。まず思ったのは、私の目が見えなくなっていることを相手に知られてはならないということ。だから、視力が戻ることを信じて蹴られながらジッとしていたんだ」

ヒクソンは、視力を失っていた。

だが、そのことに誰も気づいていなかった。

セコンドについていた弟のホイラー・グレイシーさえ、「立て!立て!」と叫んでいたのだ。

船木の述懐。

「まったく気づかなかったですね。気づいていたら攻め込んだでしょうが、蹴りながら私は立ち上がってきた後の攻防を考えていました。いま振り返っても視界が塞がれている状態でパニックを起こさないのは、さすがヒクソンだなと思います。でも、あの時(猪木ーアリ状態の時)、私も大きなダメージを負ってしまっていたんです」

右ヒザを壊されていた船木

40秒ほどでヒクソンの視力は少しずつ戻り始めた。ぼやけてはいたが船木の姿を確認できるまでには回復していた。

この直後、ヒクソンは起き上がって攻勢に転じる。

素早い動きで船木にタックルを決めた。

ここが2つ目の重要なポイント。

今度は逆に船木がカラダの異変を感じていたのだ。

「ヒクソンが下になった時に上からバンバン蹴っていたんですけど、向こうも足を伸ばすようにして蹴ってくるんです。その内の一発がまともに入ったんでしょう、右ヒザをやられました。

『あれ、ちょっとおかしいな』と思った後にタックルを受けて踏ん張りが利かなかったんです。ヒクソンから、それほど力強さも感じていなかったし倒されない自信はあったのですが、アッという間にマウントポジションを取られていました」

グラウンドに持ち込まれた船木は、ヒクソンに背後に回られチョークスリーパーを決められてしまう。もはや逃げることはできなかった。それでも最後までタップを拒む。意識が遠のく中で「これで死ぬんだ」と思ったという。

20年前の世紀の闘い。勝敗を分けたポイントは約1分間の「猪木ーアリ状態」の中にあったのだ。

闘い終えてインタビュースペースに向かうヒクソン。(左から)次男クロン、長男ホクソン、弟ホイラーとともに表情に笑みを浮かべていた。(写真:SLAM JAM)
闘い終えてインタビュースペースに向かうヒクソン。(左から)次男クロン、長男ホクソン、弟ホイラーとともに表情に笑みを浮かべていた。(写真:SLAM JAM)

 

6年前、サンタモニカで一緒に食事をしていた時、ヒクソンに尋ねたことがある。

「日本で9試合闘っているが、一番印象に残っているファイトは何か?」と。

少し考えた後、彼が口を開く。

「フナキとの闘いだな。あれは私にとっても重要な試合だった。貴重な経験をさせてもらったよ。眼窩底骨折で、しばらくの間痛かったけどね。結果的に、あの試合が私のラストファイトになった。いまは、それで良かったと思っている。フナキは闘いに対して真摯で、ハートの強い男だったから」

今年3月、東京・巣鴨にある闘道館でのトークショーで船木と顔を合わせた。

その時、船木は言った。

「ヒクソンとの闘いは、スポーツの試合ではなくて決闘でした。死を覚悟してギリギリまで自分を追いつめての闘い。負けはしましたけど、大舞台でそんな経験ができた自分は幸せです」

ヒクソンは、現在61歳。2006年に現役引退を表明した後は、生まれ故郷のリオ・デ・ジャネイロと、長年暮らすサンタモニカを行き来しながら静かに過ごしている。息子(次男)のクロンは、総合格闘技の舞台で活躍中だ。

船木は、生活の拠点を数年前から大阪に移した。51歳になったが年齢を感じさせることなく、現在もプロレスのリングに上がり続けている。

スポーツジャーナリスト

1967年1月26日生まれ、三重県松阪市出身。上智大学文学部在学中から『週刊ゴング』誌の記者となり、その後『ゴング格闘技』編集長を務める。タイ、インドなどアジア諸国を放浪、米国生活を経てスポーツジャーナリストに。プロスポーツから学校体育の現場まで幅広く取材・執筆活動を展開、テレビ、ラジオのコメンテーターも務める。『グレイシー一族の真実』(文藝春秋)、『プロレスが死んだ日。』(集英社インターナショナル)、『情熱のサイドスロー~小林繁物語~』(竹書房)、『柔道の父、体育の父  嘉納治五郎』(ともに汐文社)ほか著書多数。仕事のご依頼、お問い合わせは、takao2869@gmail.comまで。

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