刺激的なセックス描写は必要なのか? ベルリン映画祭金熊賞受賞作の挑発が考えさせる。
セックスシーンを監督が〈自己検閲〉
その予期せぬ威力とは?
2021年のベルリン国際映画祭金熊賞に輝く『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ』は、実に挑発的な作品です。
ルーマニアの鬼才ラドゥ・ジューデ監督が、夫とのセックスビデオが流出し、失職の危機に立たされた名門小学校教師エミ(カティア・パスカリウ)を通して人間や社会の本質を描く本作の冒頭には、その流出ビデオとして本番セックスシーンが収められています。
でも、挑発的と言ったのはそこではありません。
日本公開されているのは、そのセックスシーンに手を加えた「監督〈自己検閲〉版」。局部にモザイクをかけるのではなく、画面の大部分を隠し、そこに本来の状態で公開できないことに対する怒りや抗議の言葉が次々と表示されます。このスタイルが挑発的なのです。
もちろん、画面のほとんどが隠されていても、声や物音からこの夫婦がどういうことをしているのかは想像がつくもの。そうした中で自己検閲というスタイルを通して新たな表現を見つけた監督のセンスに拍手を送らずにいられません。
夜に保護者会を控えたエミが、人々の鬱屈が溢れるコロナ禍のブカレストをさまよい歩く第一部。さまざまな映像のイメージが格言や風刺の効いた言葉とともにアルファベット順に提示される第二部。保護者会がエミの去就を審議する第三部。
こうした三部構成で描かれる本作は、卑猥とは何かを問うだけではなく、世界を覆ったコロナ禍の閉塞感やルーマニアの歴史、さらには女性への抑圧をも浮かび上がらせますが、自己検閲版のおかげでより一層印象付けられたのは人間の下世話さ。
保護者会の会場では、事実確認という名目でエミの流出ビデオを出席者たちが鑑賞することに。本人がいる目の前で確認するという行為のなんというお下劣さ。
しかし、ここで自己検閲版は更なる威力を発揮します。保護者会の場面では、問題のセックス映像は分割画面に映し出されますが、問題映像が見えないおかげで、観客の視線は保護者たちの欲情や好奇心剥き出しの表情に注がれることになり、人間の煩悩や醜悪さを意識せざるを得なくなるのです(自己検閲で隠されていなければ、流出ビデオに目が行ってしまうか、逆に画面から目をそむけるかして、保護者たちの表情を見逃していたかもしれないのですから)。
この自主検閲版は、セックスシーンは、行為そのものを映さなくても何が行われているかが想像できるものだということに改めて気づかせてくれるものでもあります。
直接見せなくても
表現できる
リアルで直接的な描写も表現の一つの方法です。けれども、性的な行為そのものを直接映し出さなくてもフレームの外から聞こえる喘ぎ声や物音だけで何が行われているか理解させてくれる作品もありますし、セックスシーンでも登場人物のバストトップが映らないように配慮された作品もあります。
そこから思うのは、登場人物の着衣が乱れてもいない不自然なセックスシーンで作品への没入を妨げるよりは、物音や映像のイメージで官能を表現するほうがより映画のクオリティを高めるのではないかということ。そうした表現ならば、俳優の意にそわない性描写や露出は避けられ、俳優も守られるし、作品のクオリティも守られるのではないでしょうか。
セックスシーンはどう表現されるべきものなのか。金熊賞受賞作の「監督〈自己検閲〉版」は、セックスシーンと裸が大きな意味を持つ『帰らない日曜日』や『パリ13区』とあいまって、観客としての筆者にも考える新たなきっかけをくれたのでした。
(関連記事:「必然性があるから心を揺さぶる。セックスシーンと裸が内面を映し出す『帰らない日曜日』と『パリ13区』」)
『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ 監督〈自己検閲〉版』
シアター・イメージフォーラム他全国順次公開中
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