不条理な支配と服従。なぜ、ヨルゴスはわざわざ同じ俳優に章ごとに違うキャラクターを演じさせているのか。
女性の自我の目覚めを、性を通して、鮮烈な映像美で描き、エマ・ストーンに2度目のアカデミー賞主演女優賞をもたらした『哀れなるものたち』が年初に日本公開されたばかりのヨルゴス・ランティモス監督。ストーンと3度目のタッグを組んだ『憐れみの3章』は、このギリシャが生んだ鬼才が、彼の原点と言うべき「不条理世界」に返った怪作だ。
作品を構成するのは、それぞれに独立した3つの物語。第1章では、ある人物にすべての選択肢を奪われている男。第2章では、海難事故から生還した妻が別人なのではないかと疑念を抱く警官。第3章では、肉体の穢れを許さないカルト教団に属し、教祖になると定められた特別な人物を懸命に探す女。それぞれの苦悩が描かれる。こう書かれてもどんな物語なのかイメージしづらい世界で繰り広げられるのは、ヨルゴスらしいブラックなユーモアを交えた不条理な出来事。
第2章で主人公が、妻の生死がわからぬなか、友人でもある同僚夫妻がためらうにもかかわらず、妻との思い出として一緒に見るビデオは、そのユーモアの最たるものだろう。
この3つの物語を演じるのは、エマ・ストーン、ジェシー・プレモンス、マーガレット・クアリー、ウィレム・デフォーら。彼らがそれぞれの章で演じるキャラクターもまったく別のキャラクターだ。それも、見るからに別人というビジュアルではなく、別人だとわかる程度に衣装や髪型が違うくらい。
ただ、冒頭、「R.M.F.」なるイニシャルが胸に刺繍されたシャツを着て登場する男だけが、唯一、すべての章に登場する。しかも、それぞれの章のタイトルに、彼の名前が入っているのだ。これは一体、どういうことなのか。深読みせずにいられないのだが、実はこれこそがヨルゴス流の○○○○(これからご覧になる方のために伏字にさせていただきます)だったりするのかもしれない。
それぞれの物語で浮かび上がるのは、支配と服従。極端な考えに囚われてしまうことの哀しさや愚かさ。とはいえ、これはあくまで筆者の受け止め方。各章の登場人物たちの関係性には、現代のさまざまな問題が託されているようにも思える。
アレックス・ガーランドは、『MEN 同じ顔の男たち』で主人公ハーパーが滞在先の片田舎で出会う男たちが、年齢や職業も問わず、みんな同じ顔をしていることで、女性を縛りつけようとする社会の無意識を象徴してみせた。
ヨルゴスが、今作で俳優たちにビジュアルを大きく変えずに、それぞれの章で別のキャラクターを演じさせているのも、「人間なんて、所詮、みんな同じ」ということを視覚化しているのでは?
『女王陛下のお気に入り』や『哀れなるものたち』は、ヨルゴス作品らしからぬわかりやすさがあったからこそ、ヴェネツィア国際映画祭で受賞する(=批評家受けする)のみならず、それぞれの主演女優にアカデミー賞をもたらす(=興行的に成功する)ことにもなったと言える。だが、45日以内にパートナーを見つけられなかった独身者は動物に変えられる『ロブスター』や、謎めいた少年に家庭が破壊される『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』のようなシュールさや難解さ(=わけのわからなさ)こそ、ヨルゴス。第1章で主人公が、人生の支配者からプレゼントされるコレクターアイテムのかずかずの悪趣味加減や、第3章で繰り広げられる教団の性の儀式の胡散臭さなど、長編の脚本を『聖なる鹿殺し〜』以来、久々にエフティミス・フィリップと共同で手がけていると知って、本作に溢れるヨルゴスらしさに納得だ。
第1章でウィレム・デフォー演じる裕福な男に人生のすべてを支配されている男、第2章で生還した妻は別人ではと疑念を抱く警官、第3章ではデフォー演じる男が率いる教団のメンバーを演じているジェシー・プレモンスは、本作で第77回カンヌ国際映画祭男優賞を受賞している。彼をはじめ、キャストの面々が3章それぞれで纏う空気感の違いにも、感嘆するばかり。
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『憐れみの3章』
9月27日より全国公開
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン