未来への希望と現実の痛みが、ジェンダー差別のない社会への力になる。『花嫁はどこへ?』『ジョイランド』
「ジェンダー・ギャップ指数」2024で、日本は146か国中118位。選択的夫婦別姓に関する法改正も30年近く進展していない。社会保障制度にしろ、働き控えに繋がる年収の壁といった税制にしろ、日本の制度のかずかずは、家父長制のもと、男性中心の社会を前提として作られてきた。
インド映画『花嫁はどこへ?』とパキスタン映画『ジョイランド わたしの願い』は、そうした社会で生まれたジェンダー差別がもたらす事態を、それぞれに異なるテイストで描き、改めて私たち自身を見つめさせてくれる秀作だ。
『花嫁はどこへ?』で描かれるのは、同じ赤いベールで顔を隠し、同じ満員列車に乗り合わせた2人の花嫁プールとジャヤが、一方の花婿の勘違いから入れ替わってしまったことから始まる騒動。
ドタバタコメディを想像させる設定だが、かたや純朴なプール、かたやしっかり者のジャヤ。対照的な2人が、予期せぬ出会いを通して、自分の生き方に向き合っていく物語は、サスペンス要素もはらんだ娯楽作品として楽しませつつ、女性が自分の求める未来を掴める社会への希望を抱かせてくれる。
物語の舞台は2001年。まだガラケーの時代で、それも誰もが手にしているわけではないだけに、新郎とはぐれた花嫁たちは、すぐに夫や実家と連絡が取れるわけではない。そんななか、よりによって見知らぬ地に一人取り残されてしまったプールが世間知らずときているので、彼女を待ち受ける事態に気を揉まずにいられないことに。一方のジャヤは、進歩的。未来への大きな夢を秘めている彼女は、女性の権利を象徴する存在でもある。
だが、この作品はジャヤの目指す生き方だけを讃えるわけではない。愛する夫と穏やかに暮らすことを願うプールの生き方も、幸せの形のひとつとして肯定する。そう、幸せの形は人それぞれ。それを自分の手で選びとることに意味があるのだから。
しかも、夫とはぐれた先で出会った屋台の女主人マンジュから、自分らしく生きるための賢さも逞しさも学んだプールは、格段の強さも身につけている。マンジュのようにヒロインたちの生き方を支えてくれる人々がいることもまた、社会的な題材をハートフルなエンターテインメントに仕上げた本作の大きな魅力だ。
ジェンダーロールに縛られた
若い夫婦が直面する壁
一方、『ジョイランド わたしの願い』が見つめるのは、ジェンダーロールに縛りつけられる社会の現実。
パキスタンの古都ラホール。こちらは誰もがスマホを持つ現代。保守的な中流家庭ラナ家の次男ハイダルは失業中だが、料理が得意で同居する兄夫婦の娘たちにも慕われている。妻ムムターズは、大好きなメイクの仕事で家計を支えている。それぞれの役回りは社会に求められるジェンダーロールとは逆でも、彼らなりの幸せを感じていた二人。
だが、ハイダルがトランス女性のダンサーであるビバに惹かれ、彼女のバックダンサーとして働きはじめたことから、夫婦の人生に変化が生まれていく。
後部座席にハイダルを乗せたビバのバイクが疾走するシーンが使用されたポスタービジュアルに私が抱いたのは、閉塞感を突き破った先にある自由への予感やときめきだ。けれども、第75回カンヌ国際映画祭で「ある視点」審査員賞とクィア・パルム賞を受賞した本作が描くのは、ジェンダーロールと闘う先に明るい未来が開けているという単純な話ではない。自身も家父長制の中で育ったサーイム・サーディク監督が見つめるのは、自分らしく生きることの難しさだ。
ハイダルは主夫としての才能に恵まれていたし、おそらく本人もそう生きたかったはずだ。やり甲斐のある仕事で家計を支えていたムムターズとは、ジェンダーロールに縛られなければ最高に幸せな夫婦になれたに違いない。
だが、家父長制を重んじる社会の圧力がそれを許さない。さらに、ビバに惹かれたハイダルが、そのビバにとっての最も大切なことをわかっていないという悲しさ。
ジェンダーロールに縛り付けられた若い夫婦。やがて明らかになる希望と思いやりに満ち溢れていた結婚前の彼らの姿が、二人が直面した現実の痛みをさらに深くする。
国や時代背景は違っても、社会的圧力はまだまだ人々をジェンダーロールに縛りつける。『花嫁はどこへ?』と『ジョイランド わたしの願い』。それぞれが抱かせる未来への希望と、時を重ねても変わらない現実への痛みは、日本も含めた世界をジェンダー差別のない社会へと変えていく力になると信じたい。
『花嫁はどこへ?』
監督/キラン・ラオ
全国公開中
(c)Aamir Khan Films LLP 2024
『ジョイランド わたしの願い』
監督・脚本/サーイム・サーディク
新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか公開中
(c)2022 Joyland LLC