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そもそもの器が違うとしても。アルツハイマーを患う大切な人とこんなふうに慈しみあえたら。

杉谷伸子映画ライター

もし、自分や大切な人がアルツハイマーになったときも、こんなふうに慈しみあえたら。『エターナルメモリー』は、そう願わずにいられないほど、優しい時間が広がる愛の記録です。

映し出されるのは、アルツハイマーを患う夫アウグスト・ゴンゴラと、彼に寄り添う妻パウリナ・ウルティアの老夫婦。

やがて自分にも訪れるかもしれないと誰もが不安を抱くアルツハイマーという題材。そこにさらなる興味を抱かせたのは、アウグストがピノチェト軍事独裁政権下に反政権デモの現場も伝え続けた著名なジャーナリストで、パウリナがチリの国民的女優であり、チリで最初の文化大臣となった存在であること。そして、『83歳のやさしいスパイ』(’20)でチリの女性として初めてアカデミー賞にノミネートされたマイテ・アルベルディ監督が、本作で自身2度目となるアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞候補になったから。つまり、彼らがごく平凡な人たちではないからという、我ながら俗っぽい理由でもあったのですが。

アルツハイマーを患う人物とその家族が被写体というと、記憶が消えていくことへの患者自身の不安や、自分のことを認知してくれなくなったことへの家族の悲しみが描かれるという先入観を抱きがち。もちろん、アウグストもそうした不安に混乱する夜もあります。

けれども、作品のほとんどを通して映し出されるのは、穏やかな日々。長年連れ添ったパウリナが誰だかわからないアウグストと、そんな夫に向き合う時間をも慈しんでいるだろうパウリナの間で交わされる冒頭のやりとりは、日本でもリメイクされたラブストーリー『50回目のファースト・キス』(‘04)を彷彿させるほど、愛に溢れていて、のっけからこのカップルの温かい関係性に心を奪われてしまいます。

シャワーを浴び、読書し、散歩する。そんな二人の穏やかな時間がゆっくりと流れる中に挿入されるのは、彼らの往年の映像。家族の風景を映した微笑ましいビデオだけではなく、アウグストがピノチェトによる軍事独裁政権時代に独立系メディア「Teleanalisis」を通して伝えた反政権デモの現場もある。それは多くの人が行方不明になったチリの痛ましい歴史です。

そうした過酷な時代にもチリの未来のために闘ってきた二人が、今、穏やかに過ごせる社会になっているという幸せ。

パウリナが、アウグストを自身の出演舞台の稽古場に同伴し、アウグストもキャストの面々と一緒に体を動かす。パウリナはそんなふうに常にアウグストと一緒にいることを楽しんでいますが、それができるのも、アウグストが稽古場にいることを受け入れてくれる周囲の人々に、介護というものへの理解があるからなのも想像できます。

一方、数々のチリの出来事を記録してきたアウグストも、自身が弱っていく姿を映されることに何の問題もないと断言したそう。

もし大切な人がアルツハイマーになったら、きっと私なら、相手が自分のことを誰だか認識してくれないことに対して、頭ではそういうものだとわかっていても、激しく動揺し、ときには苛立ってしまうはず。もちろん、パウリナも動揺することはあったでしょう。けれども、彼女はきっと苛立ったりはしなかったのでは? そう、この温かい愛の記録は感じさせるのです。

アウグストもパウリナも、そもそもの人間としての器の大きさが私とは桁違い。その現実を彼らの歩んできた人生から感じつつも、これから大切な人たちや自分自身が老いや病と一緒に生きていくなかで、自分もこの優しさと温かさを持っていられたらと願わずにいられなくなる。

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『エターナルメモリー』

8月23日(金)、新宿武蔵野館、シネスイッチ銀座、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国公開

映画ライター

映画レビューやコラム、インタビューを中心に、『anan』『25ans』はじめ、女性誌・情報誌に執筆。インタビュー対象は、ふなっしーからマーティン・スコセッシまで多岐にわたる。日本映画ペンクラブ会員。

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