知財センター発の異色ドラマ『大河ドラマが生まれた日』
金子茂樹氏脚本×生田斗真主演により、大河ドラマ第1作『花の生涯』(1963年)ができるまでの若きテレビマンたちの奮闘が描かれたテレビ70年記念ドラマ『大河ドラマが生まれた日』(NHK総合)が、2月4日に放送される。
この番組の一つの肝は、初の「知財センター発ドラマ」だということ。
企画を手掛けたのは、NHK連続テレビ小説『ちりとてちん』(2007年度下半期)の制作統括で、かつてのNHKドラマ部長、2020年から「NHK知財センター」のセンター長を務める遠藤理史氏。
ドラマ作りとは全く畑違いの「知財センター」だが、実は「知財センターだから作れたドラマ」だという。
「例えばドラマ部で同じ企画を1から取材してドラマ化しようとすると、取材のコネ作りから大変な労力や時間を要するわけです。しかし、知財センターはテレビ放送開始70年記念の『テレビ放送史』という分厚い本をアーカイブスで出しているので、そのコネを持ったチームがいて、資料もいっぱいある。むしろこれは知財センターが今出すべきドラマなんじゃないかというタイミングに、たまたま元ドラマ部の僕と、入局時にドラマ志望でドラマ作りをしてみたかったアーカイブスの番組制作統括の千野(博彦)くんがいたんです」
ドラマ+ドキュメンタリー・報道のノウハウが集結
本作の制作統括は、NHKエンタープライズ(NEP)の佐野元彦氏と知財センターの千野博彦氏の2名が担当。
ただし、知財センターは著作権関係の交渉などや映像・資料などの保存・データ化等を手掛ける組織で、千野氏自身、報道経験は豊富ながら、ドラマの経験は少ない。
「台本打ち合わせやキャスティング、最初の台本作りのための取材など、プロデューサー仕事の前半戦は僕が担当した形ですね。ドキュメンタリーや報道のための取材と、ドラマのための取材では、聞きたい話がちょっと違いますから。ドキュメンタリーや報道の場合、事実確認は非常に緻密で正確で、1個1個チェックしていきますが、ドラマの取材はそれよりも『そのときどう思っていました?』とか、気持ちを聞いたり、エピソードに使えるコネタが欲しかったりする。そうした取材で引っ張ってきたネタを脚本家に伝えて、提案することもあります。千野さんにとっては、台本作りの席で『プロデューサーがこういうことを言って、それに主人公がこう返して、喧嘩になるみたいな展開はどうですか』『あ、それ良いですね』みたいな会話を聞くのがすごく新鮮だったらしく、面白がってくれていました。ドキュメンタリーは事実を元に番組を作るので勝手にスキマを埋めることが許されない一方、ドラマ作りは事実と事実があって、その間をどうつないでいったら面白いかみたいなことを考える仕事ですから」
取材対象者から出演者へーー中井貴一と大河1作目の浅からぬ関係
脚本の金子氏もNHKドラマのOBや中井貴一への取材に一緒に行ったと言う。
つまり中井貴一への最初のコンタクトは出演依頼ではなく、「取材先」だったのだ。
「『花の生涯』は当時の芸能局長が無茶ぶりしたことで、プロデューサーの合川明さんが松竹専属の役者だった佐田啓二さんに出演依頼に行くことから始まります。本作では、阿部サダヲさん扮するプロデューサーに無茶ぶりする芸能局長役を中井貴一さんに演じていただいていますが、中井さんと言えば、もちろん佐田啓二さんの息子さん。そんなわけで、最初は佐田啓二さんの息子さんとして、当時の話を聞かせて欲しいとお願いしたんですよ。その頃佐野さんがBS時代劇「雲霧仁左衛門」を担当していて中井さんと話がしやすかったのもありまして。『花の生涯』の取材から入ってお話を聞かせていただいているうちに、やっぱりできれば出演もお願いしたいと……中井さんも何かの縁と思って下さったのでしょう。無茶ぶりする芸能局長の役を受けてくれました(笑)」
ネタの宝庫・スタジオ日誌をスタッフが発掘
また、本作を成立させたのは、千野氏をはじめ、知財センターの人々のノウハウとスキルだったと遠藤氏は語る。
「千野さんはドラマは経験が少ないけど、取材を率いていくのがさすがにうまい。僕がエピソードなどを取材している間に、当時の文献や資料が残っていないかを調べてくれていて、『こういう映像は残っていないですかね』と聞くと、数時間後ぐらいに『ここにあげときました』なんてこともザラでした。アーカイブス部は日常的にそういう情報収集や検索などの仕事をしているので、さすがに仕事が早く、すごい取材力です」
そんな中、ドラマに数々のヒントを与えた、チーム千野のお手柄もあった。
「愛宕にあるNHK放送博物館に行って『花の生涯』のスタジオ日誌を見つけてきたんですね。僕らには日誌が残っているという発想すらなかったんですが、アーカイブスでは日常的に放送博物館をはじめ、様々な博物館にも行っているので、『何か資料があった気がする』と。スタジオ日誌は、本来技術のスタッフが何時間働いてどんなシーンを撮影したといった日々の業務連絡を記録する日誌ですが、その端っこにちょっとずつ『こんなトラブルがあって、遅れた』『台本が役者に届いていなくて、覚えていなかったから、NG連発』みたいな日々の小さなトラブルが載っていて、ネタの宝庫だったんですよ。そうした本物の資料をチーム千野がどかどか集めてくるから、『よくこんな資料が残っていたなあ』と、金子さんも食い入るように見ていて、『めちゃくちゃ面白い』『それも使いましょう』と盛り上がっていました。『遺族にこういう人はいませんかね』と佐野さんが聞いたときにも、『ちょっと調べます』と言って、数日後には『〇〇さんと連絡を取りました』と。取材や資料収集に秀でたチームを率いているリーダーが、このドラマのプロデューサーに入ってくれたことは、とてもラッキーでした。もともとドラマ部出身の僕と、報道経験豊富な千野さんがたまたまこの時期一緒に知財センターにいたことで成立したドラマです」
ところで、知財センター発のドラマを、ドラマ部はどう見ているのか少々気になるが……。
「もちろんドラマ部にも協力してもらっていますよ。スタジオもドラマ部がおさえているスタジオを借りるわけですし、技術や美術は同じスタッフが担当するわけで。本当はこの作品は昨年秋頃に撮りたかったんですが、10月頃は『鎌倉殿の13人』をまだ撮っていて、『どうする家康』の撮影も始まっているという大河ドラマが2つ重なる時期で、東京の朝ドラも撮り始めていて。毎年10月はスタジオもスタッフも逼迫する時期なんです。それで、もう少し後か前にと言われ、広報期間も長くとりたいから準備を早く始めようということで8月~9月序盤に撮影しました。僕らが緑山スタジオで撮っているとき、隣が『どうする家康』だったんですよ。それで、家康のチームと廊下でばったり会ったら『あー遠藤さん、趣味でドラマ撮ってるんですってね』『趣味じゃねえよ!』なんてやりとりもありました(笑)」
様々な分野の「プロ」が集結した知財センターだからできたこと
それにしても驚いたのは、元ドラマ部長で現・知財センター長の遠藤氏が、企画書を1から書いて提案し、自らプレゼンに行き、若手局員などと全く同じ土俵で同じ段階を踏んで、ドラマ化を実現したこと。ホントに「ドラマ」好きですねえ……と言うと。
「偉い人が企画出したから採択、みたいなことはないです。うちの会社って、企画を出すということに関しては新入社員もベテランも平等なんですね。若い頃はそれを何とも思わなかったんですけど、今考えると凄くフェア。ありがたい話です。だけど、逆に言えば年寄りだっていい企画さえ出せばチャンスがあるわけで(笑)。それに、ドラマ部以外でドラマを作ること自体は、自分にとっても新しいチャレンジで、アーカイブスとNEPにとっても初めてのことはありますが、全員で誰もやったことがないことに挑んでいるわけではなくて。アーカイブス部は、編集を20年やっていますとか、千野さんみたいに報道番組をずっとやっていましたとか、教育番組をやっていましたとか、広報をずっとやっていましたとかいう人たちが全国から集まっていて、アーカイブの活用について学び、またそれぞれ別のところに戻っていく部署なんですよ。だから、それぞれが何らかのプロで、みんながやれることを出しあったら、ちょうどドラマを作るのに必要十分のスキルがあったみたいな形なんです」
大河ドラマの原点は、「スターをたくさん出して、みんなが楽しめる大娯楽番組」だった
本作の第一の狙いは、「コメディとして、若きテレビマンたちの奮闘ぶりを笑いとばして見て欲しい」というもの。しかし、裏テーマには、テレビドラマ業界の人々への激励もあるようだ。遠藤氏は言う。
「誤解を恐れずに言うなら、大河ドラマは今ではディフェンディングチャンピオンみたいになっているけど、もともと1発逆転を狙って始めた番組だったわけですよ。かつての映画とテレビの関係は、今のテレビとインターネットの関係に似ていると思っていて、もはやネットがテレビを追い越そうとしているのに、テレビはまだチャンピオンの気でいる。でも、本当はすでにチャレンジャーの地位に戻っているのだから、自分たちが今得ているものを守ることに汲汲とするのではなく、勝ち取る覚悟で頑張らないといけないんじゃないの?と思うんです。個人的にはテレビドラマ作りに携わる人たちが、初期のテレビの歴史の気合いをひしと感じて、もう一度気合を入れ直すような作品になればと。『大河ドラマって何ですか』と聞くと、日曜夜8時からの枠で、1年間やっていて、時代劇で、歴史の勉強になるみたいなことを言う人たちがいっぱいいるけど、実はどれも正解じゃないんですよ。最初は日曜8時の放送じゃなかったし、1年間放送していたわけでもない、そもそも大河ドラマの本質は『スターをたくさん出して、みんなが楽しめる大娯楽番組をやるぜ』というだけのことだったわけで。そうした原点を踏み間違えると、辛気臭いものができちゃうんです。もともと無茶ぶりされ、断られて、それでも頑張ってやったら、それがエポックとなって、後のスタンダードになっていったのが大河ドラマでした。60年続く枠を思いつくって、大変なこと。でも、今のテレビは、そのぐらいの覚悟が必要なんじゃないかと思います」
『大河ドラマが生まれた日』を皮切りに、今後、『NHKのど自慢が生まれた日』『大相撲中継が生まれた日』『全国高校野球選手権大会中継が生まれた日』など、様々な歴史を描くドラマが生まれて来る日もあるかもしれない。
(田幸和歌子)