承久の乱で後鳥羽上皇方を裏切り、北条政子に会いにきた公卿の正体
承久3年(1221)5月21日、後鳥羽上皇の挙兵に、世間が騒然とするなか、1人の公卿が都から鎌倉にやって来ます。一条頼氏です。頼氏は、5月16日に都を出立し、ついに鎌倉に辿り付いたのでした。
頼氏が鎌倉に着いて真っ先に向かったのは、北条政子の邸です。政子に向かって、頼氏は言います。「一条信能ほか一族の多くが、後鳥羽院方となりました。しかし、私は旧好を忘れず、独りこうして馳せ参ったのです」と。
頼氏は、北条時房の娘を娶ったと言われています。後鳥羽方にとっては、裏切り者の頼氏ですが、北条氏からしたら、有り難い存在だったでしょう。事実、政子は頼氏の前述の言葉を聞いて、感激したといいます(『吾妻鏡』)。
政子は感激するだけでなく、頼氏に都の情勢をしっかり尋ねています。頼氏は、都の情勢を詳しく語り始めます。先月より、洛中は不穏であったこと。人々はそれに恐れ慄いていたこと。5月15日、官軍(1700騎)が馳せ集まり、高陽院殿の門を警備したこと。同じ日、京都守護・伊賀光季の邸が、官軍により襲撃され、光季は自害、邸に火が放たれたこと。南風が烈しく吹き、火は燃え広がったこと。
様々なことが、頼氏の口を通して語られたのです。それについての政子の感想などは『吾妻鏡』には記されていません。