【その後の鎌倉殿の13人】執権・北条泰時の死!泰時の死に潜む「怨霊」の正体とは?
延応元年(1239)、そして延応2年(1240)は、鎌倉において大物が次々と亡くなっていきました。1239年12月5日、相模国の有力御家人・三浦義村が亡くなります。『吾妻鏡』(鎌倉時代後期に編纂された歴史書)においては「頓死」とありますので、急死だったようです。そして死因については「大中風」(脳卒中)とあります。義村の死を聞いた鎌倉幕府の執権・北条泰時は、夜に入り、義村の邸を訪れ、義村の息子らにお悔やみを言ったのでした。幕府の将軍・藤原頼経も義村の死を聞き、使者を派遣しています。『吾妻鏡』では暗躍する姿も描かれる義村ですが、幕府宿老として、泰時を支えたことも事実です。泰時は義村の邸を訪問し、その息子たちに何を語ったのでしょうか。
年が明けて1240年1月23日、泰時の叔父・北条時房が俄かに病となります。早朝から「辛苦」の状態だったようです。昼頃には、泰時が時房の見舞いに行きます。しかし翌日、時房はこの世を去ります。昨日朝から口が上手く回らなくなり、夜には意識不明となったようです。義村と同じく「大中風」が病因とされました。24日の昼にその死が「披露」されましたが、本当は今暁午前2時に亡くなっていたとも言われます。鎌倉幕府初代連署として泰時を支えてきた時房。その突然の死は泰時に衝撃を与えたでしょう。
そして仁治3年(1242)6月15日、泰時が病死します。同時代の公卿・平経高の日記『平戸記』には「温気如火」とありますので、泰時は高熱に苦しんだようです。『平家物語』に描かれた平清盛の死を想像させます。承久の乱に敗れ、隠岐に配流された顕徳院(後鳥羽上皇)の怨霊の祟りで泰時は死んだのではとの風聞もありました。後鳥羽院は都に戻ることなく、1239年に崩御されています。思えば、泰時の父・北条義時も6月に亡くなっていますし、承久の乱も6月でした。偶然の一致でしょうが、そうしたことも後鳥羽院の怨霊の仕業が語られた1つの要因かもしれません。