【その後の鎌倉殿の13人】承久の乱の「張本人」と言われた僧侶の哀れな末路
嘉禄3年(1227)6月14日。京都は六波羅からの伝令が鎌倉に到着。次のような報告を幕府に行いました「先日、6月7日朝、鷹司油小路の大炊助入道が後見・肥後房の邸にて、菅周則が尊長法印を捕えようとしたところ、尊長が自殺を企てました」と。
尊長というのは、僧侶の名。と言っても、尊長の父は一条能保という公卿。尊長は名門に生まれ、そして仏門に入るのです。延暦寺の僧侶となり、法勝寺の執行ともなり、ついには後鳥羽上皇の側近として、承久の乱(1221年6月)に加担したのでした。『吾妻鏡』(鎌倉時代後期の歴史書)は、尊長を「承久三年合戦(承久の乱)の張本也」と記しています。
乱後、尊長は逃亡し、潜伏。同書は「肥後房の宅において(尊長を)隠し置いていた」と書いてあります。六波羅探題(鎌倉幕府が京都に設置した出先機関)としても、承久の乱の張本人(首謀者)・尊長を何としても逮捕したいと、動いてきたのでしょう。尊長に関する情報を集めていたと思われます。
それで「尊長は、肥後房の邸にいる」との情報を掴み、踏み込ませたのです。菅周則が踏み込む数日前に、和田朝盛(和田合戦で敗死した和田義盛の孫)が尊長を捕まえようとしたようですが、失敗しています。前述のように、菅周則が踏み込んだその時、尊長は自殺を図った。捕縛しようと近寄った「勇士」2人を、尊長は負傷させたと言いますので、凄いパワーです。
自殺を図った尊長ですが、即死はせず、身柄は六波羅に運ばれます。が、翌日(8日)、尊長は死去するのです。六波羅で殺されたという説もありますが、自殺を図った際の傷がもとに死亡した可能性もあるでしょう。