間違いなく”持っている男”だった。「早大・斎藤佑樹」が駆け抜けた8シーズンを思い出す
入学してすぐの1年春に全てを手に入れる
北海道日本ハムの斎藤佑樹が引退を発表した。
大学を経由せず、早稲田実業高校からそのままプロ入りしていれば…巷からはそういう声も聞こえてくる。
東京六大学リーグ通算61試合登板。計5513球を投げている。もしかしたら、”投げ過ぎ”という表現が当てはまるかもしれない。もしかしたら、これがプロ生活に暗い影を落としたかもしれない。
それでも早稲田大学時代の斎藤は、間違いなく輝いていた。そして、どこまでも”持っている男”だった。
始まりは入学間もない1年春(2007年)のリーグ戦だ。斎藤は早大野球部史上初めて、1年生で春の開幕投手を務める。「ハンカチ王子」の大学初陣とあって、神宮球場には報道陣が大挙して訪れた。
斎藤は前年夏、2試合に及んだ駒大苫小牧高校との決勝で、怪物投手と呼ばれていた田中将大(現・東北楽天)に投げ勝ち、甲子園(第88回全国高校野球選手権大会)優勝投手に。そこから大フィーバーが巻き起こり、国民的スターになっていた。
東京大学とのこの試合、甲子園の大スターの登場に、球場の雰囲気もふだんのリーグ戦とは違っていたが、斎藤は冷静だった。いわく「甲子園のように満員になると思っていたら、お客さんは意外と少なかったですね(観衆18000人)」。1年生開幕投手の重圧も感じていないかのように、6回を危なげなく投げて1安打無失点と好投。すんなりとリーグ戦初勝利を手にした。
するとここから3連勝し、1年生としては16年ぶりとなる春4勝を挙げる。39度目の優勝に王手がかかった慶應義塾大学2回戦でも勝利投手に。3万6千人の観衆が見守った大一番、斎藤は6回4失点と本調子ではなかったが、打線が援護。「持っている男」ぶりを見せつけた。
もっとも、これは序章に過ぎなかった。続く全日本大学野球選手権大会でも準決勝と決勝の先発を託され、いずれも勝利投手に。33年ぶり3回目の大学日本一に貢献した斎藤はMVPを受賞し、大学でも名実ともに「主役の座」に就いた。
優勝パレードの後の祝賀会では、マイクを手にこう言った。
「わが早稲田大学野球部は、一生、勝ち続けます」
有終の美もこれ以上ない最高の形で飾る
順風満帆という言葉は斎藤のためにあるかのようだった。1年秋は最優秀防御率に輝き、リーグ3連覇の立役者に。2年春は優勝を逃すも、同秋は7勝1敗の圧巻の成績で天皇杯を奪回。この頃、投げれば勝つのが半ば当たり前で、負けるとニュースになる存在になっていた。
そんな斎藤に暗雲が立ち込め始めるのが3年生になってからだ。特に秋は自身初の防御率3点台と低迷。主将となった4年春も防御率こそ1点台に盛り返すも、2勝3敗と黒星が先行し、台頭してきた同期の大石達也(元・埼玉西武、現・同コーチ)や福井優也(東北楽天)に立場が並ばれる。スカウトの評価も分かれ出す。
しかし、斎藤は最後まで「持っている男」だった。そして、舞台が用意されている男だった。ラストシーズンの4年秋、優勝に王手をかけていた慶大1回戦こそ敗戦投手になるが、翌々日に行われた早慶による優勝決定戦では、神宮球場が超満員に膨れ上がった中で好投。42度目のリーグ優勝に導いた。
名門・早大野球部の主将兼エースとして、早慶が激突する最高のひのき舞台で優勝。これ以上ない最高の形で有終の美を飾ると、優勝インタビューではこんな一幕があった。
斎藤はアナウンサーからマイクを借りると「これまで“持っている男”と言われてきましたが…」と切り出したのだ。すかさずスタンドから(自分で言うか!という感じの)どよめきの声が起こったが、すぐにこう続けた。
「今日、何を持っているのか確信しました。それは仲間です(以下、略)」
言いたかったのは、チームメイトと、戦ったライバル・慶應への感謝だったが、斎藤自身も「持っている男」と自覚しているのをうかがわせた。
「持っている男」は明治神宮大会でも持っていた。準決勝に先発した斎藤は決勝では登板がないと見られていたが、福井、大石の後にマウンドへ。最後の1イニングをきっちり3人で抑えると、胴上げ投手になったのだ。
言葉は悪いが、美味しいところを持っていくのはいつも斎藤だった。
「持っている男」はドラフトで4球団から1位指名を受け、抽選の結果、日本ハムに入団。プロでの9シーズンはご存知の通りだ。高校、大学での輝きからすると、NPB通算15勝はかなり物足りない成績に映る。
だとしても、神宮のファンはいつまでも覚えている。史上6人目の「30勝300奪三振」を達成し、4度のリーグ優勝と、2度の全国優勝に導いた雄姿を。
斎藤佑樹が駆け抜けた早大での8シーズン。それは他校が「打倒!斎藤佑樹」に執念を燃やし、東京六大学リーグが盛り上がりを見せた「特別」な8シーズンだった。