Yahoo!ニュース

東大の4年生右腕に聞いた(前編)ラストシーズンに完投で初勝利をマークできた理由

上原伸一ノンフィクションライター
今秋のリーグ戦を最後に引退した東大の鈴木太陽(写真提供:東京六大学野球連盟)

神宮のマウンドが重圧になっていた

今秋の東京六大学リーグ戦、東京大学運動会硬式野球部は2勝を記録した。シーズン2勝は2017年の秋シーズン以来。「勝つとニュースになる」と言われる東大にとっては快挙でもあった。

1つ目の白星に大きく貢献したのが、鈴木太陽(4年、国立)だ。慶應義塾大学との2回戦、鈴木は6回1死までパーフェクトに抑え、失点は7回の1点のみ。9回134球を投げ、完投勝利を挙げた。鈴木はこれが、記念すべきリーグ戦初勝利になった。

鈴木は「生涯一のピッチングだったと思います」と振り返る。

このベストピッチにつながるターニングポイントがあった。2週間前に行われた明治大学との2回戦だ。リーグ戦初勝利は逃したが、鈴木は7回3安打2失点と好投した。前週の開幕カード、早稲田大学戦とは見違えるような投球だった。

秋の開幕戦、鈴木は苦しんでいた。1回戦は3番手で登板したが、1アウトも取れずに自責点3で降板。2回戦は最後にマウンドに上がり、1回を無失点に抑えたものの、2四球と制球が定まらなかった。

ところが、わずか1週間足らずで修正したのだ。ただ、修正はそう簡単なものではない。1週間で修正できたのは、そこに至るまでの日々があったからだ。

話は春のシーズンにさかのぼる。鈴木は5試合に登板したが、いずれも期待を裏切る結果になり、中心投手としての役割を果たせなかった。

「開幕前のオープン戦では課題の制球力も、かなり改善されていたんです。でも、いざリーグ戦で神宮のマウンドに立つと、普段の投球ができませんで。打たせて取ろうとするととらえられ、力を入れて押し込もうとすると、今度はフォームがバラバラになる…悪循環を繰り返してました。4年生の自分が試合を作らないと、という責任感が、気負いにつながったところもあったと思います」

思い出がたくさんつまった東大球場で大学野球に打ち込んだ4年間を振り返ってくれた鈴木(筆者撮影)
思い出がたくさんつまった東大球場で大学野球に打ち込んだ4年間を振り返ってくれた鈴木(筆者撮影)

初めて“ピッチング”ができた

そんな鈴木にアドバイスをしてくれた人がいた。先輩理事(東京六大学野球連盟・常務理事)で、東大の臨時コーチをしている西山明彦氏だ。東大で投手だった西山氏は、リーグ戦で通算8勝をマーク。卒業後は社会人クラブチームでプレーし、関西外語大学の野球部監督も務めた。

「夏の練習の時です。西山さんから『(打者を過剰に意識しないで)ストライクゾーンに変化球を投げれば、そんなに打たれないのでは』と言われたんです」

シンプルにゾーンに投げ込めばいい-。秋の開幕戦ではそれを実践できなかった鈴木は、西山氏の言葉を思い出しながら、次の明大戦に向けて、練習に励んだ。ブルペンでの投球よりも打撃投手の時間を多く割き、どんどんゾーンに投げながら、打者に打ってもらった。

「1球、1球、どうぞ打ってください、と投げました。それを続けていくうちにコントロールも安定し、テンポも良くなりました。抑えようとするのではなく、こういう気持ちで神宮のマウンドに立てばいいと、マインドセットができました」

そして迎えた明大2回戦。鈴木は自身3度目の先発を任された。初回、先頭打者に粘られ、四球を出した時は「嫌な予感がよぎった」が、これまでのように“絶対に抑えなければ”とはならなかった。ゾーンにゾーンにと自分に言い聞かせ、腕を振った。
すると初回を無失点に。以降も力まずに投げ、最速146キロのストレートもスピードを抑えて、狙ったコースに投げた。

前述の通り、鈴木は明大打線を7回3安打2失点に。東北楽天ゴールデンイーグルスからドラフト1位指名された宗山塁(4年、広陵)はノーヒットに抑えた。

「僕にとっては初めて“ピッチング”ができた試合になりました。投手とは…というのがつかめた試合でもありました」

平常心を保つのは難しい

鈴木が本格的に投手をするようになったのは中学2年の夏。地肩の良さを買われた。3年時は軟球で130キロ近い速球を投げていたという。ただし、コントロールには難があった。

偏差値70超の東京有数の進学校で、都立で初めて甲子園に出場した学校としても知られる国立高校では、2年秋よりエースになった。この秋は1次予選を勝ち抜き、2回戦に進出(都32強)。解体が決まっていた神宮第二球場での高校野球最後の大会で、1961年開場の「聖地」のマウンドも踏んだ。コロナの影響で甲子園大会が中止になった3年夏は、独自大会(東京大会)で3回戦まで駒を進めた。

国立高2年秋、この秋限りで取り壊しが決まっていた神宮第二球場で力投する鈴木(写真提供:東京大学運動会硬式野球部)
国立高2年秋、この秋限りで取り壊しが決まっていた神宮第二球場で力投する鈴木(写真提供:東京大学運動会硬式野球部)


投手にとって、公式戦で平常心を保つのは、とても難しい。バッターと対峙すれば、相手を抑えたいという本能が顔を出し、自ずと力が入る。時に弱気にもなることもある。中学2年の秋から何度も公式戦で投げてきた鈴木も、そのたびに平常心を心掛けてきたが、なかなかそこにはたどり着けなかった。

しかし、秋の明大2回戦では“打ってもらおう”という境地で、平常心をキープできた。力んでいないから、体が開かず、球速は130キロ台後半でも伸びがあり、カーブ、スプリットなどの変化球もよく決まった。

投手になって9年目。この試合は、鈴木が初めて、真の意味での“投手になれた”試合だったかもしれない。今秋のリーグ戦を最後に競技者としての野球は終えたが、大学のラストシーズンでその感覚をつかめた。それは慶大2回戦でリーグ戦初勝利を手にしたのと同じくらい、投手として価値があったことだろう。

自分と向き合う習慣があった

ラストシーズンで、ずっと追い求めていた「平常心のピッチング」を会得したのは、子供の頃から、自分と向き合う習慣ができていたのもあるかもしれない。

「幼稚園生の時によく母親に図書館に連れて行ってもらったんですが、図書館の空間は居心地が良く、よく本を借りてました。本はよく読んでましたね。小学時代は歴史小説の「真田太平記」(全18巻)にはまってました」

外で体を動かすのも好きだったが、1人で本を読む時間も好きだったのだ。一方で、ほとんどの子どもが通る「ゲーム遊び」もしていた。ただし、ゲームはもっぱら友達と外でやり、家に帰れば、することはなかったという。「能動的な時間」を過ごすのが身に付いていたから、ゲーム遊びに流されることもなかったようだ。

鈴木は大学ラストシーズンで「平常心のピッチング」を会得。リーグ戦初勝利につなげた(写真提供:東京六大学野球連盟)
鈴木は大学ラストシーズンで「平常心のピッチング」を会得。リーグ戦初勝利につなげた(写真提供:東京六大学野球連盟)

鈴木のリーグ戦初勝利は、チーム2勝目の呼び水にもなった。4カード目の法政大学2回戦、東大は渡辺向輝(3年、海城)が9回2失点と好投すると、門田涼平(2年、松山東)の適時二塁打でサヨナラ勝ちをおさめた。

鈴木は「シーズン中盤の3カード目で1勝できたのが大きかったのかもしれません(昨秋の1勝は4カード目だった)」と言うと、こう続けた。

「東大は勝利が遠いチームですが、1つ勝つと、その経験を、成功体験を次に活かせる力があります。勝った時はこうだったからこうしようと…秋はその取り組みが2カード残っている時点でできた。結果的には2勝で終わりましたが、勝てるイメージを持って残りの試合に臨むことができました」

東大の選手が成功体験を活かす力があるのは、勉強で同じことをやってきた自信があるからかもしれない。

次回「後編」では、鈴木の「投打二刀流」への挑戦に触れている。

(文中敬称略)

ノンフィクションライター

Shinichi Uehara/1962年東京生まれ。外資系スポーツメーカーに8年間在籍後、PR代理店を経て、2001年からフリーランスのライターになる。これまで活動のメインとする野球では、アマチュア野球のカテゴリーを幅広く取材。現在はベースボール・マガジン社の「週刊ベースボール」、「大学野球」、「高校野球マガジン」などの専門誌の他、Webメディアでは朝日新聞「4years.」、「NumberWeb」、「スポーツナビ」、「現代ビジネス」などに寄稿している。

上原伸一の最近の記事