都立高を指導して今年で44年目。大ベテラン監督は今なお、正解のない答えを探し求める
大きな影響を受けた東大和での10年間
昭和、平成、令和―。都立片倉高校(以下、片倉)の宮本秀樹監督は、3つの時代で高校野球に関わっている指導者だ。1980年に早稲田大学を卒業後、都立高の社会科教諭となり、野津田高校で6年、東大和高校(以下、東大和)で10年、府中工業(以下、府中工)で11年間指導にあたり、片倉では今年17年目になる。合計すると、指導年数は実に44年(うち監督で37年)に及ぶ。
昨年3月に都立高教諭としての42年の勤務を終えてからは、部活動指導員になったが、現在も監督を続けている。
宮本監督は長いキャリアとともに、実績もある。府中工の監督時代は、2005年の高校生ドラフト4巡目で中日ドラゴンズに指名された高江洲拓哉投手を育成。高江洲氏は都立高では2人目のドラフト指名選手となった。
片倉では、12年夏の西東京大会でベスト4に進出。この大会、4強に残った都立は片倉だけだった。1980年夏の国立高校(くにたち。以下、国立)、99年夏と01年夏の城東高校、03年夏の雪谷高校、そして14年春の小山台高校(21世紀枠)に続く、都立5校目の甲子園出場は叶わなかったが、「片倉旋風」を巻き起こした。
夏の西東京大会で8強になった18年には、長年の功績が認められ、日本高野連の育成功労賞を受賞している。
どっぷりと高校野球に浸かって44年(早大在学時に母校・東京学芸大附属高校の監督、コーチを務めた2年を含めると46年になる)。その大きなきっかけになったのが、東大和での(86年からの)10年間だ。「佐藤道輔先生と一緒にやっていなかったら、東大和の野球に出会わなかったら、ここまで高校野球に入れ込まなかったのでは…」宮本監督は言う。
東大和は「元祖・都立の星」と呼ばれる。都立と強豪私学の差が歴然としていた1970年代、東大和は78年の春、夏と2季連続で決勝に進出。夏はあと1勝で甲子園出場を逃すも、東大和の快進撃は高校野球の枠を超え、大きなニュースになった。国立が都立で初めて甲子園の扉を開いたのは、この2年後。東大和の決勝進出が「都立でもやれる」と国立に勇気を与えたのは確かだろう。
東大和を率いていた佐藤氏は、昭和の球児に広く知られていた指導者だ。甲子園のヒーローではなく、最初に赴任した都立大島高校時代の、等身大の高校野球を綴った「甲子園の心を求めて」(報知新聞社)はベストセラーになり、多くの人に影響を与えた。
38年前に現在のスタンダードを経験
宮本監督によると、東大和の高校野球は、時代の最先端を行っていたという。
「今では珍しくないですが、メンバー外の選手にもチャンスを与えるため、チームをAとBの2つに分け、B戦も頻繁に行っていました。練習内容はレギュラーもメンバー外もほぼ同じ。80年代はまだ、メンバーとそれ以外の区別がはっきりしていた時代でした。『全員野球』という言葉をいち早く広めたのも佐藤先生だと聞いてます」
その他にも都立高ではあまり例がなかった宿泊を伴う遠征を行ったり、保護者の理解や協力も必要と、父母会との連携も密に取っていた。さらには後援会組織もあり、地元地域から応援されるチームを目指していた。いずれも当時としては、特に都立としては画期的だった。
こうした東大和のスタイルは宮本監督を驚かせたが、なかでも衝撃を受けたのが、先輩・後輩の上下関係が全くなかったことだという。
「あの頃はまだ、ほとんどの高校野球チームには、厳しい上下関係が存在してました。他の運動部もそうでしたね。ところが、佐藤先生は『努力しない先輩は敬う必要はない』という考えで、よくある下級生の仕事や雑務はありませんでした。グラウンド整備もごく自然に全員でやってました。キャッチボールの時も、ボールを握った順番にグラウンドの奥に行く。佐藤先生は、上級生が手前で下級生は奥、という不文律も嫌っていたんです」
10年間、東大和で部長、監督を歴任した経験は、その後の赴任校を指導する上で、ベースになった。ただ、東大和のやり方を全て踏襲しているわけではなく、取り入れていないこともある。例えば、下級生の「指導係」だ。
「東大和は毎年、メンバー外の選手のなかから、1年生を指導する指導係を選んでいました。佐藤先生には、メンバー外の選手にも役割を与えたい、という考えがあったんです。私も一時、採用してましたが、今は置いてません。せっかく野球をするために入ったのだから、最後まで一緒に野球をやろうと。そういう考えに変わったんです」
野球部の常識と社会の常識は違うのでは…
高校野球に限らず、指導に正解はないだろう。目の前の選手たちは常に変化するし、時代も動くからだ。宮本監督はそれは認識しつつも、その年のチームを過去最高のチームにするため、その時々にベストの答えを出すため、模索を繰り返している。
「今なお、試行錯誤の連続です。“これはこう”という指導法が、自分の中で確立されていれば、楽なんですが(笑)、選手に発する言葉も、そう言い切れるのかと、自分に対して疑問を呈すことが多いです」
宮本監督は続ける。
「よく指導者が口にする“高校野球は社会に出て役に立つ”もそうです。もちろん、そうあってほしいですし、送り出したOBが社会に適応しているのを見ると、確かに…と感じますが、教員は学校以外の世界を知らないですからね。簡単に言っていいのかな、と思うのです。そもそも、私たちが野球部の活動の中で教える常識が、必ずしも今の社会で本当に必要なものかどうか分からないですしね」
挨拶や礼儀の常識も決めつけてはいけないと考えている。
「例えば、練習試合の前に両校の監督が話している時。何か用事がある選手が『お話中に失礼します』と言うのが、合格点の作法かもしれません。でも、さらに一歩進んで、話が途切れたのを見計らって『すみません。ちょっといいですか』と言った方が、自然なのかもしれません」
勝つことで自己肯定感が高まる
宮本監督は40年近く前に、現在ではスタンダードになっている「東大和のスタイル」に接していた。そのため、昭和と令和で大きく高校野球が変わった印象は持っていないようだ。
「丸刈りでないチームが増えるなど、表面的な変化はありますが、根底の部分ではさほどないと感じてます」
ただし、時代のニーズはいろいろある。指導においても、監督が導くのではなく、選手の能力を引き出す、選手に考えさせる指導が良しとされている。
「そもそも、考え“させる”のは使役で、すでに自主性を奪っているんですが、それは置いといて、自主性、主体性がキーワードになっているのは承知してます。では、自主性、主体性はどこから生まれるかと言うと、個々の選手の判断です。そして、選手が自らの意志で判断するには、その準備として多くのことを教えなければならないですし、この積み重ねがあってこそ、判断ができると思っています」
そこで最近始めたのが、練習試合の後、なぜ、宮本監督があの場面でこのサインを出したか、選手全員に対して、1つ1つ説明することだ。たとえ試合でサイン通りに動けても、それはある意味、使役である。だが、理由が分かれば、次にサインが出された時、監督の意図を読み取ろうとする。
「そうなれば、サインが全くの受動なものではなく、進んでやろうとする能動的なもの、自主的な判断に変わりますからね」
一方で、いつの時代も不変なのがチームの「目標」だ。競技チームである以上、目標が勝利であるのは変わっていない。
宮本監督は高校野球における「勝利」をどのようにとらえているのだろう?
「勝つことは1つの成功体験ですが、それによって、選手個々の自己肯定感が高まると、感じてます。特に中学まであまり褒められたことがない子はそうですね。すると、どうなるかというと、人の話を素直に聞くようになるんです。自分のなかで、どうせ…と完結しなくなるのかもしれないですね」
宮本監督は現在、67歳。高校野球の監督としては大ベテランだが、今なお、迷いながら、指導者としての進化を続けている。執筆活動にも精力的に取り組み、2020年には「『甲子園の心を求めて』と私」(自費出版)、今年2024年8月には「高校野球へようこそ」(柘植書房新社)を上梓した。
むろん、目指しているのは、都立5校目の甲子園出場だ。
「ウチに限らず、都立が躍進すると、都立“なのに”よく頑張っている、と言われるんですが、そこに甘えているうちは甲子園には行けない。そう思ってます」
宮本監督の挑戦は続いている。