「5番・ライト」で先発出場も。目指していたのは「二刀流」だった。東大の4年生右腕(後編)
高1秋に認められたバッティング
東京大学にとって今秋の最終戦となった立教大学2回戦。先発投手の鈴木太陽(4年、国立)は、前のカードの法政大学戦から打順が1つ上がり、6番に起用された。鈴木は打力もある。法大戦で7番だったのもそのためだ。この最終戦まで、投手ながら10打数3安打、打率3割をマークしていた。
先発投手で6番。大学野球ではなかなか見られない打順だが、実はこの形、鈴木がずっと思い描いていたものだった。
「最後の試合でようやく、目指していたことが実現しました」
鈴木はもともと、「投打二刀流」を志望していた。中学でも、そして、都立国立高校でも、投手で中軸を打ち、登板しない時は野手として出場していたからだ。
野球人生で最初に実力を認められたのは、投手・鈴木ではなく、打者・鈴木であった。国立高1年秋(2018年)、1年生にして4番に抜擢されていた鈴木は(ポジションはショート)、一次予選の決勝、延長11回に劇的なサヨナラホームランをはなつ。この一発が関係者の目に留まり、U17東京都高校選抜チームの選考会に招集されたのだ。
選考会には当時、東亜学園高校2年で、東洋大学を経て、ドラフト1位で北海道日本ハムファイターズに入団した細野晴希もいた。
「呼ばれたのは強豪私学の選手が多かったんですが、そのなかでも細野さんは存在感が違いましたね」
鈴木は、選抜チーム入りは果たせなかったが、1年生で選考会に呼ばれたのは大きな刺激となり、1つの成功体験にもなった。そして、そのことは、“東大野球部に入る”という目標が、明確になることへとつながっていく。
「高校に入学した時から、漠然と東大で野球ができれば…という気持ちはありました。選考会で高いレベルに触れたことで、それが強くなったんです。こういう選手たちと、神宮で戦いたいと。そこからですね。本気で東大を目指すようになったのは」
以来、練習後に通っていた塾での勉強にも力を入れたが、集中し切れなかった時期もあった。新型コロナウィルスの影響を受けた3年生の春だ。感染拡大を防ぐため、4月、5月の約2か月間、学校が臨時休校になった。
「その間は集まっての自主練習も禁じられていたので、1人で走ったり、バットスイングをしてましたが、机に向かっても“これからどうなるんだろう”と、野球のことを考えてしまって…勉強が手につかなかったですね」
小学時代に知った積み重ねの大切さ
再び勉強に集中できるようになったのは、中止になった夏の甲子園大会の代替として、東京でも独自大会が行われたからだ。
「僕らにとって甲子園は遠い目標でしたが、3年夏に目標がなくなるのはショックでした。甲子園に紐づいた地方大会(予選)もなくなってしまうのかと…そんななか、独自大会(東京大会)を開催していただいたおかげで試合ができ、高校野球にけじめがつけられました。他の運動部の同級生には最後の大会がなくなり、茫然としていた友人もいましたが、自分たちは独自大会前の練習試合もやらせてもらえた。有難かったですね。もし独自大会がなかったら、果たしてどうだったか…」
鈴木は、高校生活最後の試合になった佼成学園高校との3回戦で敗れると、すぐに頭を切り替えた。「ゴールが決まっていたので、そこまで頑張ろうと」。学校がない日は11時間、勉強することもあったが、ふだんは“ロングレース”であるのを踏まえ、睡眠時間を削ってまで勉強することはなかった。
「睡眠時間が少ないと、日中眠くなり、結果的に効率も落ちるので。勉強をしないオフの時間も確保してました。僕は長期目標を立てたら、コツコツと積み重ねていくのが性に合っているんです」
ひとたび目標を立てたら、階段を1段ずつ上がるように、そこに向かっていく。こうした鈴木のスタイルが形成されたのは小学時代だ。
「両親から勉強を強要されたことはありませんが、自分で目標を立てた漢字検定の時は、『目標を決めたら最後まで手を抜かないように』と言われました。自分で時間を作って取り組みなさいと。漢字検定を通して、積み重ねの大切さや、時間を計画的に使うことを学んだ気がします」
子どもの頃から「コツコツタイプ」だった鈴木は、入試直前の模試の判定結果が厳しくても慌てなかった。高校野球を終えてから積み重ねてきたことが、本番1か月前頃から成果として現れてきたのを感じていたからだ。
鈴木は現役での東大合格を果たし、高校1年秋に目標として定めた東大野球部への入部を果たした。
2年秋にまず打者としてデビュー
東大野球部での目標も立てた。前述と重なるが、「4年生になった時、エースとして1戦目に先発し、高校時代と同様に、投げない試合では野手で出る。そんなビジョンを描いてました」。
だが、鈴木が入部した当時、東大野球部の投手はほとんど打撃練習をしていなかった。投手が打つのはリーグ戦の数日前だけだった。入部の際は「二刀流をやらしてください」と言ったものの、チームの状況を知ると、入ったばかりの1年生がいきなり両方の練習をするのは気が引けた。
そんななか、「両方やらないの?」と声を掛けてくれたのが、前主将の梅林浩大(当時2年)だった。他の先輩たちも、鈴木の「二刀流」への挑戦を後押しする雰囲気を作ってくれたという。1年時はリーグ戦の出場はなかったが、まずは打撃を買われ、打者としてAチームに同行した。
鈴木がリーグ戦デビューを飾ったのは2年秋。明治大学との開幕戦、鈴木は代打として登場した。一方、投手として神宮初マウンドを踏んだのは、次のカードの慶應義塾大学3回戦。2番手で2回を投げた。このシーズン、鈴木は代打で4打席を経験。登板しない時は打者で出場し、大学での投打二刀流の第1歩を刻んだ。3年春も3度、代打で起用されている。
打者・鈴木にリーグ戦初安打が生まれたのは今春の慶大との開幕カードだ。5番・ライトで先発出場した1回戦はノーヒットだったが、2回戦、先発投手として5回途中まで投げた後は右翼を守り、7回にヒットをはなった。投手では自責点4と不本意だったものの、入部時に描いていた形に初めて近づいたのだ。
次のカードの明大1回戦でも5番・ライトで1本ヒットを飛ばしたが、野手としての出場はこの試合が大学生活最後となった。今春の打撃成績は19打数3安打、投手では防御率9点台。投手と野手の2役をこなしたものの、ともに成績は振るわなかった。
最終戦は6番・投手で先発出場
主に先発投手を担った今秋は、「前編」で詳しく触れたように、見違えるような投球を見せた。明大2回戦で7回3安打2失点と先発の役割を果たすと、慶大2回戦では9回3安打1失点2四球の内容で、リーグ戦初勝利を完投で挙げた。
<前編> 東大の4年生右腕に聞いた(前編)ラストシーズンに完投で初勝利をマークできた理由(上原伸一) - エキスパート - Yahoo!ニュース
打撃も好調で、冒頭の通り、最終カードまでに3本のヒットをマークしていた。
それだけに6番・投手で先発した立大2回戦は、鈴木も期するものがあったに違いない。
ところが、鈴木は打席に立つことはできなかった。1打席目が回って来る前に降板したからだ。2回途中まで投げて、自責点は4だった。
「1回戦でチームが9回逆転サヨナラ負けを喫し、この2回戦で負けたら大学野球生活が終わる、勝ってもう1試合やりたい、という思いが力みにつながってしまって…」
今秋は「平常心」を保って投げていたが、立大2回戦ではマインドセットができなかったのだ。悔いはないと言えば、噓になろう。それでも、今年の両校の最終戦を締め括るエールの交換で、東大の応援歌である「ただひとつ」を聞き入った後は、大学野球をやり切った表情をしていた。
鈴木は「大学野球の最高峰」と呼ばれる東京六大学リーグで、通算20試合に登板し、計41回打席に立った。1つの白星が難関の東大にあって、完投で1勝を挙げた。打者としては計6安打を記録した。ちなみに今秋の打率3割は、規定投球回数に達した投手のなかでは2番目の高打率だった。通算成績は、自身が入学時に描いていたものとは隔たりがあるかもしれないが、確かに投打で足跡を残したのである。
大学最後の試合から10日後。「1年したら、神宮が恋しくなるのでは?」と問いかけると、鈴木はこう言って笑った。
「すでに神宮が恋しいです」。
(文中敬称略)