【昭和100年】昭和の名宰相「田中角栄」が愛した≪塩っ辛い味と美しい湯≫名旅館で”角さん”を追体験
昭和四十七(一九七二)年十一月─ ─。
一台のヘリコプターで、 時の総理・田中角栄。自民党候補の選挙応援のためにやってきたのは、福島県会津。
会津東山温泉「向瀧」六代目の社長・平田裕一さんが、 遊説を終えて、田中角栄が「向瀧」を訪れた様子を話してくれた。
「当時は、自宅の格子窓越しに、『向瀧』の正面玄関が見えたのですが、田中角栄さんを 連れて来られたのは渡部恒三さんでした」
私は以前、渡部恒三から田中角栄との交友録を聞いたことがある。
「当時、会津東山温泉に芸者が二〇〇人もいた華やかな時代の話もした。そうそう、俺が東山温泉で、男として最初の一歩を踏み出したんだって、話したね。 角さんはね、『こんなにいい宿はない。素晴らしい』と喜んでくれましたよ」 と、まるで「向瀧」が自分の宿であるかのごとくに誇らしげだった。
さらに「角さんはね、あれは喜んだよ」と言う。〝あれ〞とは向瀧名物「鯉の甘煮」。鯉を輪切りにし、砂糖をたっぷり入れて、醤油と酒で五~六時間ほど火にかけ 骨まで柔らかくしたもの。甘じょっぱい味を田中角栄が 好んだのは、味付けの濃い雪国で生まれ育ったためだろう。
「はなれ」の浴室の湯船には源泉が注がれる。浴場は湾 曲した折り上げ式格 ごう 天 てん 井 じょう が特徴で、ガラス窓越しに外 から入った光が白と黒のタイル張りの浴場を照らし出す。 湯船はひとりサイズ。御 み 影 かげ 石の少し深い風呂に入ると 「ざぶ~ん」と湯が溢れ出る。その湯音が天井にこだま する。田中角栄もこの湯の音を豪快に響かせながら入っ たのだろうか。
渡部恒三が「偉くなったら泊まりたい」とまで評した、いわば人生の目標とした名旅館 「向瀧」の真髄とは─ ─。
「向瀧」は、会津若松駅から車で一五分程のところにある。湯川沿いに進むと永観橋の向 こうに、緑に囲まれた赤瓦葺母屋屋根の木造二階建てが現れる。
「向瀧」の名が掲げら れたその建物が目に入った瞬間、「ここに泊まるのか」と背筋が伸びる。一方で「ここに 泊まれるのか」と気持ちが高まる。
平成八(一九九六)年に「登録有形文化財制度」が施行され、「向瀧」は第一号に登録 された由緒ある旅館なのだから、緊張感と高揚感が同時にわいてくるのも当然だ。 「向瀧」の創業は明治六(一八七三)年。 会津藩上級武士の指定の保養所だった「狐 きつね 湯」を平田一族が受け継ぎ、宿を始めた。 五代目の主の平田昇 のぼるは渡部恒三の親友だ。 渡部恒三は述懐する。 「平田昇と俺は中・高・大学と、同級生で兄弟以上の付き合いだ。俺が衆議院議員になっ たばかりの頃は質素に暮らしていたし、会津に家がなかったから、『向瀧』を自分の家のように使わせてもらった。もう、最高の贅沢だったなぁ。 旅館はさ、特定の政治家を応援しないという所もあるけど、昇は後援会長になってくれ て一生懸命、俺を応援してくれた」 渡部恒三と平田昇の親密さを現社長の平田裕一さんが明かした。
「父・昇は渡部先生を『コウゾー』と、渡部先生は『ノボルー』と呼んでいました。渡部 先生が会津若松で仕事をされる時は、『向瀧』の客室に泊まられるのですが、食事はいつ も平田家の食卓で、家族のように一緒に食べました。渡部先生は、『かぶ汁が美味しい』 と、かぶの味噌汁を好んで召し上がっていました。旅館に来ているというより、同級生の 家に遊びに来ているという感じでした」 「向瀧」に滞在中、渡部恒三はもっぱら「きつね湯」に入っていた。「きつね湯」はタイ ルを組み合わせた床で、天井には湯気を吸いこむ国産石が使われている。ナトリウムとカ ルシウムを多く含むお湯は美しく生き生きとしている。
※この記事は2024年6月5日発売された自著『宿帳が語る昭和100年 温泉で素顔を見せたあの人』から抜粋し転載しています。