今週末、どこ行く? 首都圏からさっと行ける「温泉ごはん」 名宰相が愛した蕎麦で【昭和100年】を想う
名宰相が愛した一杯の蕎麦(神奈川県・箱根温泉)
吉田茂、岸信介、池田勇人、田中角栄、福田赳夫、中曽根康弘といった歴代総理が温泉旅館で過ごしたエピソードはバラエティに富んでいる。
多忙を極める宰相が家族と過ごした微笑ましい団欒の場であり、時には政治上の密談も行われた。それらの逸話が最も残っているのは箱根である。その取材過程で一杯の蕎麦と出合った。
箱根湯本駅から徒歩6~7分、湯本橋のたもと、早川沿いに店を構える蕎麦屋「はつ花」は昭和9年創業。
吉田茂や岸信介、中曽根康弘らがひいき筋だった。
「はつ花」のご主人・小宮社長を訪ねると、一番記憶に残るのは昭和35~36年に来ていた池田勇人だという。
「当時の著名な方は箱根に別荘を持たれていることが多くて、出前の方が多かったですね。池田さんにもよく出前していました」
池田勇人の別荘は仙石原にあった。箱根湯本から仙石原までは片道30~40分、主にオートバイで届けていたという。
「ある日の早朝、池田さんの奥さまから『主人が会いたいと言っているから、来てちょうだい』と連絡がありまして、オートバイで仙石原に向かいました。すると、池田さんが門を出る時に、車の窓を開けて、『気に入っている蕎麦屋は東京にも2、3軒あるが、箱根では「はつ花」だ。また届けてくれ』とご本人から直接言って頂きました。奥さまからオールドパーを頂戴したこともあります」
食器棚からまだ封を開けていないオールドパーを出して見せてくれた。
「吉田茂さんにはいつも10人分くらいまとめて大磯に届けましたし、作家でいうと谷崎潤一郎さんは湯河原温泉の旅館に届けました」と語る。
その蕎麦には、決まって自然薯が入っている。
「昭和20年代、30年代は、箱根の外輪山で天然の山芋が採れたんです。外輪山の芋は品格っていうのかな、粘りも強く、香りも豊かでした。それにこの頃は山に入って掘ってきてくれる人も、たくさんいたんです」
今はもう堀り手がいないそうで、「はつ花」で出される蕎麦には群馬で栽培された自然薯が使われている。
名宰相が食した外輪山の自然薯ではないものの、現在も多くのお客さんに親しまれているのが「自然薯蕎麦」だ。
すりおろした自然薯が蕎麦が見えないほどたっぷりかかり、その上に生卵の黄身と刻みのりがのっている。混ぜ合わせると、メインは蕎麦か、自然薯かわからなくなるのが面白い。自然薯を絡めながら蕎麦をいただくと、喉ごしがいい。コクと旨みと優しい風味が印象的だ。
自然薯の効果は滋養であり回復力。食べた晩は、深夜になっても目が覚めていたのは、そのせいか。
私が食した自然薯よりも、もっと濃厚な味を求めてやまなかった昭和の怪物たち。底知れぬ旺盛な食欲こそが、政治家として大成した原動力なのだろうか。
※この記事は2023年4月6日に発売された自著『温泉ごはん 旅はおいしい!』(河出文庫)から抜粋し転載しています。