【その後の鎌倉殿の13人】三浦義村の次男が佐々木重綱を弓で射殺そうとした訳
安貞2年(1228)7月24日。鎌倉幕府の4代将軍・藤原頼経は、有力御家人・三浦義村の田村邸(神奈川県平塚市)に逗留していました。この日、田村邸では、武士たちによる笠懸(馬に乗りつつ、弓で的を射る)が行われ、人々が柵の外から見物したといいます。しかし、この間、1つの事件が起こります。三浦泰村(三浦義村の次男)と、佐々木重綱(佐々木信綱の嫡男。承久の乱における宇治川の戦いでは先陣を務めた)とが口論となったのです。その口論は次第に激しさを増し、ついには、罵り合いにまで発展したようです。ちなみに、泰村は、笠懸の射手でした。一方の重綱は、武士たちによる笠懸を見て、判定する係です。馬上、泰村は矢を弓にかけます。もちろん、それは的を射るためではなく、重綱を射て殺すためです。それに気が付いた重綱は、太刀を持ちつつ、柵の外から、一歩一歩、泰村の方に歩み寄っていきます。まさに危機的状況。このままでは、血を見ることになってしまうでしょう。その時、2人の間に割って入ったのが「宿老」(幕府重臣)でした。2人が、弓を射たり、太刀で襲いかかる前に、「まぁ、まぁ」と宥めたのです。これにより、笠懸の会場に血が流れることはありませんでした。両人を宥めた宿老の名や、2人の口論の理由については『吾妻鏡』(鎌倉時代後期の歴史書)には記されていません。口論の要因としては、泰村が笠懸をする前に重綱が声をかけ、それが泰村の気に障ったのか(泰村を茶化しているように聞こえたか)。重綱の判定に泰村が不服があったのか。おそらく、その辺りではないでしょうか。