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戦国時代に食べ物の保存に必須だった塩の話と三英傑がよく食べていたものとは?

歴ブロ歴史の探求者

戦国時代は食品の生成技術が確立されていなかったので、全く違うものとなっています。しかも現代のように保存技術も乏しい事から、知恵を絞って食品の腐敗を防いでいました。そこで必要だった食品が【】。戦の勝敗を左右する戦陣食として米と並び塩がとても大切でした。

そこで今回は、戦国時代の塩のお話と信長・秀吉・家康がよく食べていた物を紹介しようと思います。

戦に必要な食料『塩』

出典:イラストAC
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冷凍技術がなかった戦国時代は戦で長距離移動をする際に、食品を日持ちさせるために塩漬けにさせるのが一般的でした。上杉謙信も宿敵・武田信玄に塩を送った逸話にもあるように、戦国時代には塩は欠かせないものでした。

この時代は、信長に限らず塩分過多の生活を送っていました。ある調査で織田信長の食事を検証したら、一日の塩分量が40グラムに達していたという事です。これは明智光秀が本能寺の変を起こさなくても『近いうちに突然死になっていたのではないか?』と言われるほどの量だそうです。

越後の上杉謙信の死因も塩分過多による脳卒中と言われています。謙信は酒を飲みながら梅干をなめる生粋の呑兵衛で、この生活を毎日続けていれば戦国時代でなくても突然死してもおかしくはありません。

交通機関や道路が発達していなかったこの時代、彼らは数十キロに渡る行軍をしなければいけません。そのため、体内から失われた塩分を補給するために現代人より多めに塩分を取る必要がありました。また、食品の長期保存方法として塩漬けにする以外の方法がなかったので、塩は欠かせないものとして重宝されました。

塩が貴重な国では味噌を作っていた

海がない県に拠点を構えていた武田信玄は塩に不利な環境だったと言えます。今川家滅亡後に駿河を領有するようになり、ようやく海産資源を持ちますが、それまでは山々に挟まれた土地で塩の工面を強いられていました。

そのような地域では塩は貴重品で、塩を保存する手段のひとつが味噌を作る事。塩を味噌に加工することで、長期に渡り塩を管理できます。信玄が領国内での味噌作りを奨励したのには、そうした背景があるのです。長野は現在でもみその主要な産地として知られていますが、信濃国に味噌作りが普及したのは信玄が作らせた【川中島溜り】がキッカケとされています。現在も日本全体で生産・消費されている味噌のおよそ5割を【信州味噌】が占めているそうですよ。

江戸時代の史料ですが【雑兵物語】に塩・味噌は支給されたと書かれており、合戦中に自分で味噌を作っていた人もいたのだとか。

その味噌の作り方というのが…

  1. 蒸してすり潰した大豆に塩と麹(こうじ)を混ぜ、布に包んでおく
  2. それを腰に巻き、合戦に参加
  3. 行軍中や戦場を走り回っている間に大豆が醗酵し、中で味噌ができる

衛生状態は別として、味噌の作り方としては理にかなっていると思うので納得のいく話です。

戦国時代は1日2食が一般的

私たちは朝昼晩の3回の食事をします。しかし、戦国時代の人々は朝昼の二回の食事でした。これは、大名・庶民に共通しており、1日3食になったのは江戸時代からだと考えられています。もちろん例外はあり、戦などで夜勤をしている人は夜食を取る事はあったようですが、基本的に一日2回の食事を取っていました。

戦中などは2食で足りるのか?』と疑問が残るのですが、戦国大名の中には一日米を5合食べる人もいたそうです。これだけ食べれば、一日2食でも平気なのもうなずけます。戦国時代の米とは【玄米】の事で、私たちの知る白米のように精米されておらず、1粒の色が褐色を帯びています。玄米は白米と比べるとビタミン・ミネラル・食物繊維を豊富に含んでいるため、健康の良い物でした。

この時代は、食品加工や農業・畜産などが現代ほど発達していなので、主食である玄米から栄養を取らなければいけなかったのですが、たっぷりの栄養素を含む玄米はスーパーフードだったと言えます。さて、私たちも食の好みがあるように、信長・秀吉・家康にも好みがあります。それぞれがどんな料理が好みだったのか紹介します。

織田信長は濃い味が好み!?

出典:イラストAC
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濃い味が好みだった織田信長は、大根の味噌漬けやネギみそが好物で、少しでも味が薄いと【水くさい】と言って激怒したそうです。血気盛んな活動家であるがため、肉体と精神を回復させるために即効性を重視したモノだったのかもしれませんね。

合理的な性格から、効率の良い食事を取ろうとしていたのか、湯漬けのような手軽に食べられるものやとり肉・アワビと言った物もよく食べていました。また、塩辛いモノが好きな反面、金平糖や干し柿をよく食べた甘党でもありました。日々の戦いのストレスからか、甘い物やしょっぱい料理を求めたアンバランスな食生活であったようですね。

徳川家康は麦飯が主食だった!!

出典:イラストAC
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健康マニアで有名な徳川家康は、生涯を麦飯で通したそうです。麦飯には、ビタミンBやカルシウム、ミネラルが含まれており、粒が大きくよくかんで食べないと消化に悪いそうです。

三河生まれという事で、食事の味付けには味噌をよく食べたていました。麦飯と味噌パワーが功を奏したのか、子だくさんで多くの側室を持ち、75歳まで鷹狩りを続け野山を走り回る程の体力・能力を維持していました。鯛のてんぷらが好きと言う逸話は、あまりにも有名で死因は天ぷらの食べ過ぎが原因ではないかと言われるほどです。

猿はタコが好きだった!?豊臣秀吉の好きな食べ物

出典:イラストAC
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豊臣秀吉は農民の出身で幼少時代は麦飯が食えない程に貧しかったので、その頃の記憶からか、天下人になった後も『山盛りの麦ごはんが一番のごちそう』と常々言っていたそうです。城持ち大名になるとよく口にしていたのがみそ焼きのタコでした。タコはタウリンや脳機能の活性化・疲労回復に効果があり、秀吉の頭脳の活力になった事でしょう。ミーハーな秀吉は珍しい物があるとすぐに飛びつき、食していたようです。

天下統一後の晩年に好んで食べたのは割粥で、米一粒を三分の一に砕いて作るお粥で大変消化が良いとされています。また、茶会で献上された『青大豆を粉にしてかけたモチ』をウグイス餅と命名したのが秀吉だったと言う逸話があります。

戦いが多く遠征が多かったこの時代は、持ち運びが容易で保存性が高い、簡単に調理ができる食品が多く誕生しました。こうしてみると昔の人は食事一つとってもさまざまな知恵を絞って生活をしていたようです。こうした先人たちの生活を学ぶことで、私たちがどれだけ恵まれた環境なのかを理解して、感謝の気持ちを持って食事が出来たらいいですね。

歴史の探求者

歴史好きが講じて歴史ブログを運営して約10年。暗記教科であまり好きでないと言う人も少なくないはずです。楽しく分かりやすく歴史を紹介していければと思います。歴史好きはもちろんあまり好きではない人も楽しめるような内容をお届けします。

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