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『鎌倉殿の13人』ラスト「頼朝さま以降に死んだ者13人」はわざとの数え間違いか 義時最後の陰謀を探る

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:Splash/アフロ)

暗殺連続のドラマだった『鎌倉殿の13人』

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は政治的暗殺の連続ドラマであった。

政治的に対立した相手を、すぐに殺してしまう。それがあのころの(12世紀から13世紀にかけての)坂東での習わしだったのだろう。

恐ろしいし、あまりに暴力的である。

あらためて、「鎌倉側」の暗殺を振り返ってみる。

頼朝が殺させたのは12人

前半は源頼朝(大泉洋)が、「殺せ!」と命じて、次々と敵を排除していった。

どう殺すかが政治でもあったということだ。おそろしい。

『鎌倉殿の13人』において、前半、頼朝の命によって殺されたのは12人であった。

あくまでドラマ上、頼朝が殺せと明確に命じた人たちである。

伊藤祐親(浅野和之)と祐清(竹財輝之助)父子から始まり、上総広常(佐藤浩市)、木曽義仲(青木崇高)、源義高(市川染五郎)、一条忠頼(前原滉)、藤内光澄(長尾卓磨)、源義経(菅田将暉)、藤原泰衡(山本浩司)、河田次郎(小林博)、曽我五郎(田中俊介)、源範頼(迫田孝也)。

劇中で名指しして殺せ、と言ったのがこれだけいた。

政権の「暗殺担当」は梶原景時から北条義時へ

頼朝指令の暗殺の担当は、当初は梶原景時であった。

ときに下人の善児(梶原善)を使い、粛々と執り行っていった。

その暗部を担当していた景時は、頼朝の死後、最初に粛清された。

善児をもらい受けたのは北条義時(小栗旬)である。

鎌倉政権の暗殺部は、義時に継承された。(28話)

ただ頼朝死亡直後は、まだ、義時は鎌倉政権の中心にいたわけではない。

いくつかの粛清は、彼が指導したものではなかった。

たとえば梶原景時や阿野全成の抹殺のおりには、義時は彼らを救おうとしていた。でも「集団指導政権の意向」は止められなかった。

鎌倉政権の意向で殺した14件

頼朝の死(27話)以降、「政権の意向」で殺された人たちは以下のとおりである。

28話:梶原景時(中村獅童)を誅殺(正徳2年1200年)

30話:阿野全成(新納慎也)を斬首(建仁3年1203年)

31話:比企能員(佐藤二朗)を騙し討ちして一族殲滅(建仁3年1203年)

32話:一幡(相澤壮太)を暗殺(建仁3年1203年)

33話:源頼家(金子大地)を幽閉先で謀殺(元久元年1204年)

36話:畠山重保(杉田雷麟)を由比ヶ浜で騙し討ち(元久2年1205年)

36話:畠山重忠(中山大志)と戦い討ち取る(元久2年1205年)

36話:稲毛重成(村上誠元)を畠山反乱の原因として誅殺(元久2年1205年)

38話:平賀朝雅(山中崇)を京都にて殺害(元久2年1205年)

40話:和田義盛(横田栄司)の反乱を討つ(建暦3年1213年)

45話:源実朝(柿澤勇人)が公暁によって暗殺されるを看過(建保7年1219年)

45話:暗殺実行犯・公暁(寛一郎)を三浦義村が刺殺(建保7年1219年)

46話:阿野時元(森優作)の謀反を防ぎ、誅殺(建保7年1219年)

48(最終)話:承久の乱にて朝廷方を破り藤原秀康(星智也)を討つ。ちなみに三浦義村弟の胤義(岸田タツヤ)は自害(承久3年1221年)

『鎌倉殿の13人』で扱われたのはここまでである。

北条義時の死後、その妻ののえ(菊地凜子/歴史上の呼称は伊賀の方)は実子の政村を執権に据えようとして失敗するのだが、それはもはや義時のかまわぬ話、ということとして、触れられていない。

「鎌倉14件の殺し」の数え方

「鎌倉」側が政治的に殺したのは、この14件ということになる。

ただ、きちんと数字で数えるのはむずかしい。

たとえば、畠山重忠の乱のおり、息子の重保は、父とは別に暗殺されているので、それをべつに数えるのか、それとも「一族殲滅された事件」として、梶原氏、比企氏、和田氏らと同等に考えてよいのか、どっちも可能である。

また建保7年1月、鶴岡八幡宮からの三つの暗殺

「公暁が間違って源仲章を殺す」

「公暁が実朝を暗殺する」

「公暁は三浦義村に殺される」

このうちどれが鎌倉の政府の意図したものであったのか、どれが偶然の事故で、どれは権力側の計画だったのか、その判断はむずかしい。

歴史家によっても意見が違っている。

いちおうドラマ『鎌倉殿の13人』の意図を汲んで、源仲章の暗殺は事故として載せず、のこり2つは政府の目論見どおり、とした。

また承久の乱の朝廷方の武将は、戦さに負けたのだから次々と殺されていくが、最終回ということもあって、処刑部分にはドラマでは触れていない。

ドラマで喋っていた(セリフのあった)藤原秀康(星智也)と三浦胤義(義村の弟/岸田タツヤ)について書き足しておいた。

こういう数え方で14件である。

死ぬ間際の義時は「死んだのは十三」と数える

ドラマ最終話の最後で、姉の政子との会話のおり、北条義時(小栗旬)が苦しそうな息のもとで「それにしても、血が流れすぎました。頼朝様が亡くなってから、何人が死んでいったか」と呟いてから、死んだ人を数え上げるシーンがあった。

「梶原殿、全成殿、比企殿、仁田殿、頼家様、畠山の重忠、稲毛殿、平賀殿、和田殿、仲章殿、実朝様、公暁殿、時元殿、これだけで十三……はっは、そりゃ、顔も悪くなる……」

とのことであった。

タイトルの『鎌倉殿の13人』に合わせようとして、そういう数え方をすれば13になる。でもあまり説得力のある羅列ではなかった。

いまあげた14人との差異は、「仁田常忠、源仲章」がこちらには入っていて、14人に数えた「一幡、畠山重保、藤原秀康」を義時は数え上げていない、というところだ。畠山重保と藤原秀康はまあ、どっちでもいいとして、問題は一幡である。

「自殺」と「事故死」を数え上げた意図は何か

仁田常忠(ティモンディの高岸宏行)は自殺していた。

このドラマでは仁田は頼家様に「時政の首をここに持って参れ」と言われて困り果て、義時に相談しようとしたが時間がないと断られたので、自害して果てた。

鎌倉の意図によって殺されたわけではない。ドラマではあくまで自殺である。

そして、先もあげた源仲章(生田斗真)。

上記のように、彼はたまたま間違って実朝に暗殺されただけで、このドラマでは「過誤によるとばっちり暗殺」説を採用している。つまり事故死である。

自殺と事故死という、いわば、義時が関与しようがなかった死もまた「自分の人相を悪くした要因」に挙げている。少し変である。

もっとも罪科の深い「一幡殺し」を数え上げていない

もうひとつ、もっとも罪科の深い殺人ながら、挙げてなかったのが一幡(相澤壮太)殺しである。

かわいいお子でした。

二代将軍頼家の長男である。

頼家の次の「鎌倉殿」、つまり三代将軍はこの子に、とされていた少年である。

ただ比企が庇護していたので、比企一族を滅ぼしたときに一緒に殺すはずが、生き延びた。

その隠れ場所へ義時がみずから出向き「あれは生きていてはいけない命だ」と善児に命じる。善児が逡巡するので、みずから刀に手をかけて、いたいけな少年をその場で斬り殺そうとした。

トウ(善児の女弟子)の咄嗟の動きで義時が斬ることはなかったが、恐ろしい瞬間であった。

そして義時は、死ぬ間際にこれを数え上げなかった。

いろんなことを示唆している。

義時がダークサイドに落ちるのは比企一族殲滅から

義時が、あきらかに無情の人となるのは、比企一族の殲滅のときからである。

それ以前は、彼はまだ善の心を持っており、御家人たちから景時や全成を守ろうとしていた。まだライトサイドに立っていた。

それが比企能員暗殺のとき、必ずしも北条が正義とは言えない争いのなか、義時は比企能員の前に立ちはだかり「謀反の罪で討ち取る」と宣告していた。

北条義時が、ダークサイドに落ちる瞬間であった。

すぐそのあと、一幡も殺せ、と息子に告げたが息子は守らず逃がし、そのとどめを彼一人が刺しにいったのである。

「一幡殺し」は彼の転機であった。しかし死の間際に数え上げなかった。

そのぶん、仁田忠常自殺、源仲章事故死を数えいれて、数を整えていた。(13に整えることはこの大河ドラマとしての意味しか持たないのであるが)

なぜ義時は「一幡殺し」を数え上げないのか

敢えて大きな罪を数えていない。

それは「本来の善き心を捨てたことを実は悔いていた」という暗示ともとれる。

また「人は自らのもっとも大きな罪には気がつかない」という意味にもとらえられる。

べつの解釈も可能だ。

策謀家だった北条義時が、「頼朝以降の死んだ人の数」を挙げるのにわざと間違えたのは(どう考えてもわざとだろう、と私はおもう)、何か意味を持たせようとしていたように見えてくる。

ただ、その明確な答えは持ち合わせていないだろう。

複層的であり、考える人によって答えが違ってくる。

そういう構造にしてある。

歴史の闇の深さをひたすら伝えた大河ドラマ

殺し続けてなにかが麻痺していたので、だからよく覚えていない、というのは本来はありえない。

「歴史の流れを作るためにまともに人を殺し続けるというドラマ」を振り返ったら、あまりに凄まじく、敢えて網羅しなかったというほうが、まだわかる。

とにかく答えはない。

「ほんとうにこういうことをやった男が日本にいた」と言うしかない

歴史の闇の深さが、冷えるように伝わってくる構成であった。

肝が底冷えする、凄まじい大河ドラマだった。あらためてそうおもう。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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