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技術者でもMITテクノロジーレビューを知らない人が多いようだ:日本版、開始

遠藤司皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー
(写真:ロイター/アフロ)

こういった仕事をしていると、技術者や研究者と話をすることが多い。

先日、ある人と会話していた際に「この間、MITテクノロジーレビューに書いてあったんですけどね」と述べたら、「なにそれ?」との反応が返ってきた。

「えっ、MITテクノロジーレビューですよ」

「だから、なにそれ?」

「マサチューセッツ工科大学が主催している、テクノロジー動向に関するコラム」

「そんなのあるの?!」

みんな知っているものだと、筆者は思い込んでいた。しかし無理もない。同誌は英語で書かれたものだから、わが国ではあまり知られていないのだろう。

当記事では、MITテクノロジーレビューを紹介する。あれはいい意味で、衝撃を受けることが多い。読んでいると、危機感や、高揚感を得ることができる。楽しく学びを得ることができるのである。

MITテクノロジーレビューを読む

MITテクノロジーレビューは、世界一の理工系大学として名高いマサチューセッツ工科大学が母体となって運営される、世界最古のテクノロジー誌である。創立は1899年。現在は印刷版とWEB版の両方で発刊されている。

その使命は、一般の読者に対して、テクノロジーが形作る世界を理解するための知見を与えることである。単位あたりの情報が蔓延するこの社会において、最先端のテクノロジーについての情報を選び、われわれに届けてくれる。有益な情報、知識は、高い知性によって選別されなければならない。ゆえにMITテクノロジーレビューは、信頼できるメディアだ。

例えば毎年行っているものに、世界中からイノベーティブな企業50社を選択する取り組みがある。50 Smartest Companies 2016では、全世界50社のうち、わが国からはトヨタ、ファナック、ラインの3社が選ばれた。昨年はラインのみ、一昨年はゼロであったから、今年は頑張ったといえよう。日本企業もどんどん新しいことをやって、世界を席巻してほしい。

そのMITテクノロジーレビューだが、10月1日から日本版が開始された。カドカワ、スパイスボックス、コパイロツトの三社が、共同で開始したようである。数年前から、日本語版の編集をやらせてもらえないかなーと考えていたので、とても嬉しかった。英語の場合、読むのに時間がかかっていたが、日本語であれば流し読みもできる。より多くの記事に目を通すことができそうである。

わが国の技術者も、こういったものに目を向けたほうがよいと思う。なぜなら、要素としての技術を集合させるばかりでは、何らかの価値を新たに生み出すことは、出来ないからである。技術は重要だ。無から何かが生じることはない。しかしより重要なのは、その技術がいかなるものであって、どのような価値を生み出すか、である。それがわかるようになれば、日本は、よりイノベーションを生み出しやすい国へと変わっていくはずだ。

技術者とテクノロジスト

全体は部分の総和ではない。部分が集まったからといって、本当の意味での全体にはならない。全体を意味づける観念的なはたらきが、そこには存在しないからである。まずもってイノベーションは、「あるもの」にではなく、「ないもの」に目を向けなければ生じない。木材の組み上げは建物にはなるが、「わが家」にはならない。「わが家」とは何であるかが、見出さなければならない。

技術者とテクノロジストは異なる。技術者とは、文字通り技術を扱う人のことである。それに対してテクノロジストとは、ドラッカーに言わせれば、体系的な知識に基づいて仕事をする人である。つまりテクノロジストとは、ある分野における知識を、実社会のうちで用いる人のことだ。技術者ならぬ「技術家」といいかえることもできよう。あるいは、「技術」をあらわすギリシャ語のテクネー techne を原義とする英語がアート(羅:ars)であることを鑑みれば、テクノロジストとは「アーティスト」のことであるといって差し支えない。

テクノロジーという言葉は、テクネーとロゴスが合わさった言葉である。テクネーは、人間のわざ、技術を指す。ロゴスとは、ものを考える力、ものごとの本質を知るはたらきである。ロゴスがあることが、人間の特徴である。

テクネーを持つ人を技術者と呼ぶとすれば、それはわざを持つ人のことになる。しかし、アリストテレスの言葉を引用すれば、テクネー、技術は「それ自体はとくになにであるとも言われないもの」である。ようするに技術は、あくまでも価値をもつことが「可能」なものにすぎない。てだて、手段にすぎないのである。ゆえに技術は、いってよければ、何にでもなりうるのである。

技術は、現実社会において有用なものとなったときに、ようやく価値をもつ。したがって、何のために用いるのか、すなわち目的が、そこには必要である。ここにおいて、ロゴスが求められる。技術をいかに用いるのか、どこに到らしめてかたちにするのかを、人は考えなければならないのである。わが国の強みは技術力であるという日本人好みの言葉は、現実にそうみなされない限りは、有効ではない。よって、現実において意義をもつものへと変えるよう、仕向けなければならない。

ようするに技術は、技術者の意思の向かうところにしたがって用いられることで、価値をもつようになるのである。その技術は、どこに向かうのか。どこに向かうべきなのか。自然によるものは自ずと発展するが、技術はそうではない。ゆえに人間が、仕向けなければならないのである。それゆえテクノロジストは、技術をいかに仕向けるべきかを、知らなければならないのである。

MITテクノロジーレビュー、これからも注意して読んでいこうと思う。

皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー

1981年、山梨県生まれ。MITテクノロジーレビューのアンバサダー歴任。富士ゼロックス、ガートナー、皇學館大学准教授、経営コンサル会社の執行役員を経て、現在。複数の団体の理事や役員等を務めつつ、実践的な経営手法の開発に勤しむ。また、複数回に渡り政府機関等に政策提言を実施。主な専門は事業創造、経営思想。著書に『正統のドラッカー イノベーションと保守主義』『正統のドラッカー 古来の自由とマネジメント』『創造力はこうやって鍛える』『ビビリ改善ハンドブック』『「日本的経営」の誤解』など。同志社大学大学院法学研究科博士前期課程修了。

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