【その後の鎌倉殿の13人】鎌倉幕府の有力御家人・三浦義村が陰陽師の回答に感心した訳
寛喜2年(1230)6月9日に鎌倉幕府の御所に落ちた雷にどう対処するか。幕府内では、御所を立ち退くべきか否かを巡って、論争となっていました。陰陽師による占いの結果で判断するべしとの意見。落雷はやはり不吉であるということで、少しだけでも移動した方が良いとの見解。いや、源頼朝公の奥州征伐や承久の乱のおりも、落雷はあった。これらは皆、勝ち戦。よって、落雷は吉兆であるとの主張。それに対し、鎌倉幕府の有力御家人・三浦義村らは「やはり、占いの結果で判断すべきだ」と述べ、結果、陰陽師による占いが行われることになりました。
招集された陰陽師7人(安倍親職・泰貞・晴賢・晴幸・重宗・晴職・国継)。幕府4代将軍・藤原頼経は御簾のなかに居ります。その御前には、執権・北条泰時・時房、三浦義村、二階堂行村という幕府重鎮が侍ります。「落雷により、御所を移動した方が良いか否か」という問いに対し、陰陽師・安倍泰貞は「内裏をはじめとする諸所で雷が落ちるのは普通のこと。占いをしたとしても、意味もなく、御所から出るのを聞いたことはありません」と回答しました。一方、安倍晴賢は「雷が落ちた家に住むべきではないと、我が先祖・晴道が解釈した書物にはございます。その書物には退去すべしとあります」と述べます。晴道はその書物を持参し、中原師員がそれをひらいて見ました。
安倍親職と晴幸は「幕府への鷺の群集、そして落雷。怪異が重なっております。怪異を避けることが肝要です」と提案。安倍国継は、泰貞と同見解でした。安倍重宗は「都では雷が落ちた場所を退きません。この御所からも退く必要はないでしょう」と見解を述べたところ、突然、中原師員が「九条良経(平安時代末の公卿)は将軍(頼経)のご先祖です。大炊殿に居られる際、雷が落ちましたが、移動はされず。そのご子孫が将軍にございます。落雷があって、移動されずとも、子孫の繁栄は明らか。吉兆です」と援護射撃。それに対し、退去派の安倍晴賢は「子孫繁栄は問題ないこと。ただし、大炊殿は灰燼に帰しました。7・80歳まで生きる人もありますが、九条良経様は38歳で若死しておられます」と反論。三浦義村は、この晴賢の回答に感心していたそうです。陰陽師の中でも、意見が分裂した落雷問題。陰陽師らが退出した後、評議があり「退去する必要はない」と決します。
北条泰時らは将軍にその事を報告。すると、将軍・頼経からは「先日の鷺の件では、立ち退くことにしよう」との仰せ。泰時は、廊下に出てから、幕府への鷺の群集(6月5日)のことについて、陰陽師に占いをさせます。すると今回は「立ち退くべし」との見解で一致しました。では、どこに退去するのか。執権・北条泰時の邸に移ることになったのでした。