なぜ「タバコ」は国語辞典の「嗜好品」から消えつつあるのか
日本語の辞書の「嗜好品」の説明から「タバコ」が削除されつつある。タバコは果たして「嗜好品」なのだろうか。でなければ、いったい何なのだろうか。
同じ出版社でも違いがある「嗜好品」の説明
日本語に「嗜好品」という言葉がある。小説家でもあり医師でもあった森鴎外(森林太郎)が使った言葉だそうだが、他の言語に同じような意味を持つ言葉は少ないという(※1)。また、森鴎外より古い明治時代から「嗜好品」や「嗜好物」という言葉は使われていたようだ(※2)。
言葉は時代の流れの中で、その意味が変化することがある。この「嗜好品」という言葉も、辞書で調べてみると興味深いことがわかる。
例えば、岩波書店の『広辞苑』の第四版(1991)の「嗜好品」の説明には「栄養摂取を目的とせず、香味や刺激を得るための飲食物。酒・茶・コーヒー・タバコの類」とあるが、同第七版(2018)の「嗜好品」の説明から「タバコ」の単語が削除されている。
他の辞書も調べてみると、同じ「嗜好品」の説明に「タバコ」が入っている辞書もあれば入っていない辞書もあり、同じ出版社でも辞書によって違いがある。
例えば『広辞苑』の岩波書店が出版している『岩波国語辞典』(第八版)の「嗜好品」の説明には「タバコ」が入っているし、三省堂の『三省堂国語辞典』(第八版)の「嗜好品」には「タバコ」が入っているが、同じ三省堂の『新明解国語辞典』(第八版)には入っていないのだ。
タバコは「嗜好品」か否か
このように最新の国語辞典でも説明に違いがあるが、タバコは果たして嗜好品なのだろうか、嗜好品ではないのだろうか。
東京地方裁判所において2003年(平成15年)10月21日に判決が出されたいわゆる「たばこ病裁判」(平成10年(ワ)第10379号 損害賠償等請求事件)の判決文の中で裁判官は、被告である日本タバコ産業らの主張を引いて「たばこは、アルコール飲料、茶とともに国民のし好品として社会に定着している」と述べている。
だが、この判決は約20年も前のもので『広辞苑』の説明が変わったように、今も同じような認識で判決が出るかどうかわからない。
では、なぜ『広辞苑』の説明が変わったのだろうか。筆者が岩波書店に聞いてみたところ、以下のような回答を得た。
タバコは「嗜癖品」か
この読者とは誰なのだろうか。「子どもに無煙環境を推進協議会」の代表理事を務める野上浩志氏に聞くと、1990年代から辞書の出版社へ「嗜好品」から「タバコ」を削除したほうがいいと指摘を続けてきたという。野上氏は、喫煙は嗜癖(addiction)や依存(dependence)であり、嗜好という表現は明らかに間違っていて「嗜癖品」と呼ぶほうが正しいと主張する。
また、歯周病と喫煙の関係と健康への悪影響から患者さんへ禁煙を推奨してきた歯科医の花島直樹氏も辞書の出版社へ働きかけてきた一人だ。
花島氏は「喫煙は、禁煙治療に健康保険が適用されているようにニコチン依存症という病気です。タバコはいわば合法ドラッグで、タバコによって多くの喫煙者が亡くなっている以上、嗜好品に入るはずがないのです」という。そして、タバコが大人のたしなみという意味での嗜好品という認識を改める必要があるとし、岩波書店の『広辞苑』の対応を評価している。
日本語以外にほとんどないという意味で「嗜好品」は定義が難しい言葉だ。戦前には、嗜好品の説明にアヘンも入っていた。
タバコ会社は依然としてタバコを嗜好品とし、あたかも日常のマイルドな楽しみのように印象づけようと必死だ。
しかし、喫煙の健康への害が広く知られるようになり「タバコ」を「嗜好品」に含むことに対する違和感が強くなった。こうして、辞書の「嗜好品」の説明から「タバコ」は消えつつある。
※1:高田公理、「人類文明史のなかの嗜好品とその未来」、嗜好品文化研究、第2021巻、第6号、156-171、2021
※2:川根博司ら、「明治・大正期の看護教科書における喫煙/禁煙についての記述」、日本禁煙学会雑誌、第7巻、第4号、2012