【四條畷市】国旗を掲げ、敵機を見張る監視施設──飯盛山頂に今も残る戦争遺跡
終戦から79年。今回は、飯盛山頂に今も残る戦争遺跡をご紹介します。
8月14日の午前6時17分、四條畷神社の南側にある飯盛山への登山道に入ります。
急坂が大半を占めるため、途中で休憩をはさみながら登山道を登ること45分、ようやく飯盛山頂にある楠木正行像が見えてきました。
その像の左手前に、旗の掲揚塔を上部に備えた古いコンクリート製の建屋があります。これが今回ご紹介する国旗掲揚台です。
大東市役所による4年前のフェイスブック投稿によると、この国旗掲揚台は1939(昭和14)年、四條畷警防団の設立を記念して建設されたもの。掲揚塔の下にある建屋は、敵機が来襲した際に軍へ知らせる防空監視哨としても使われたそうです。
建屋の中へ入ってみました。窓があったと思われる箇所には、レールのような細長い溝や、窓ガラスがはめ込められられていたのではと思われる跡が残されています。
壁の上や下の方には、丸い穴を複数発見。通気のためなのか、何かを壁に設置するためなのか、あるいは別の目的なのか。
出入り口周囲の壁には四角いくぼみが上下にありますので、もしかすると開き戸の跡なのかもしれません。
建屋の中は、畳2畳分弱の広さ。入れる人数は、1人か2人がせいぜいでしょうか。その場にしゃがみこみ、南側の窓があったと思しき箇所から外を眺めてみましたが、草木があるため遠くの景色を見ることができません。
草木がなければ遠くまで見えただろうな、と思っていると、8月14日は国鉄(現在のJR)京橋駅に爆弾が落され、多くの死傷者が出た「京橋駅空襲」の日であることを思い出しました。
周囲の木々にいるミンミンゼミの鳴き声が耳の中で響きます。79年前のこの日、大阪上空に現れた米軍機をここで発見し、軍に通報した人がいたことでしょう。もしかすると、その後に京橋駅や大阪砲兵工廠が空襲される様子も見ていたのかも知れません。
京橋駅空襲だけでなく、大阪府内や兵庫県の瀬戸内海側の街への空襲も見えたはずです。戦時中、この施設は戦争のあり様を見続けてきたのだろう、と思いながら下山しました。