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やめておけばいいのに、徳川家康に逆らって消された3人の大名

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 市民劇団「かわさきドリームミュージカル」が江戸城を築いた武将・太田道灌を題材にミュージカルを企画するというニュースがあった。こちら。のちに江戸城は徳川家康が城主となったが、その家康に歯向かったために消された3人の大名がいたので、紹介することにしよう。

◎石田三成(1560~1600)

 石田三成は豊臣秀吉に登用され、秀吉の死後は五奉行の一人として豊臣政権を支えた。しかし、三成の日頃の振る舞いは諸大名の反感を買い、慶長4年(1599)閏3月に前田利家が亡くなると、三成は七将から非道を訴えられた。

 その結果、徳川家康の仲裁で三成は佐和山城(滋賀県彦根市)に引退し、事態は収束した。この一件をきっかけにして、家康は威勢を増し、豊臣政権において半ば専横ともいえる振る舞いを行った。

 慶長5年(1600)7月、三成は毛利輝元、宇喜多秀家ら有力な諸大名の協力を得て、家康に兵を起こした(関ヶ原合戦)。準備は、万端のはずだった。

 しかし、輝元や小早川秀秋の裏切りに遭うなど、三成の目論見は見事に外れた。三成は逃亡の末に捕縛され、安国寺恵瓊、小西行長らとともに斬首されたのである。

◎真田信繁(1567?~1615)

 関ヶ原合戦において、真田信繁は父の昌幸とともに家康に戦いを挑み、敗北した。戦後、信繁と昌幸は、九度山(和歌山県九度山町)に流された。

 二人は窮乏生活を強いられたが、「打倒家康」の闘志を燃やし、家康を討つための計画を練るのに余念がなかったという。しかし、そうした話は後世に成った書物に書かれたもので、今となっては疑わしいとされている。

 慶長19年(1614)11月に大坂冬の陣がはじまると、信繁は大坂城に入城し、真田丸で徳川勢を打ち破った。この勝利により、和睦の気運が生じたのである。

 翌年の大坂夏の陣では、冬の陣後の和睦により、大坂城の惣構が破壊されるなどしたので籠城が困難で、信繁は積極的に打って出た。しかし、しょせんは衆寡敵せず、信繁の奮闘も虚しく、戦死したのである。

◎豊臣秀頼(1593~1615)

 秀吉の死後、豊臣秀頼は父の秀吉の後継者となったが、関ヶ原合戦後は家康の台頭を許すことになった。慶長8年(1603)、家康は征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開幕すると、以後は豊臣政権の持つ諸権限を吸収した。

 慶長19年(1614)、家康は方広寺の鐘銘に「国家安康」とあるのは、家康の名前を引き裂いたもので、けしからんと因縁をつけ、豊臣家を圧迫した。

 秀頼は家康に従うことを潔しとせず、ただちに家康に戦いを挑んだ(大坂冬の陣)。その後、両者に和睦の気運が生じ、大坂城の堀を埋め立てることなどを条件にして和睦が結ばれた。

 しかし、慶長20年(1615)4月、豊臣方に牢人衆が集まるなどしたので、再び両者は戦った。結果、豊臣方は敗北を喫し、秀頼は母の淀殿とともに自害して果てたのである。

◎まとめ

 家康は織田信長、豊臣秀吉という二人の天下人のあとに登場し、たくみに敵対勢力を退けた。関ヶ原合戦では毛利氏らを懐柔して自陣に引き込み、大坂の陣では全国の大名を完全に従えた。

 ここに挙げた三人は非常に気の毒だったが、もはや勝ち目はなかったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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