豊臣秀吉の母・大政所が見知らぬ男の間に産んだという、兄弟姉妹の顛末とは?
2026年のNHK大河ドラマは、豊臣秀長が主人公の「豊臣兄弟」である。秀長には、兄の秀吉、姉の日秀、妹の朝日姫がいた。しかし、母の大政所(仲)には隠し子がおり、秀吉に殺害されたという。その辺りを取り上げることにしよう。
秀長らの母の大政所は、永正13年(1516)に尾張国愛知郡御器所村(名古屋市昭和区)で誕生した。その前半生は不明な点が多く、やがて木下弥右衛門と結ばれ、秀吉らを産んだ。
長女の日秀が誕生したのは天文3年(1534)なので、天文2年(1533)以前に2人は結ばれたと考えられる。大政所は弥右衛門との間に子をもうけ、夫の死後は竹阿弥と再婚した。しかし、大政所はほかの男と秀長ら以外にも子をもうけた可能性があるという。
その事実を記すのは、宣教師ルイス・フロイスの『日本史』である。それは、天正15年(1587)のことだった。当時、関白になっていた秀吉のもとに、実の兄弟と称する若者が兵を従え、大坂城を訪ねてきた。若者は、大政所の子だったのだろう。
驚いた秀吉は、大政所に若者が本当に息子なのか問い質した。大政所は、「産んだ覚えがない」と答えたという。答えを聞いた秀吉は、ただちに若者らを捕らえて斬首し、都の街道筋に首を晒したのである。
その3・4ヵ月後、秀吉は尾張国に大政所が産んだという、貧しい姉妹が住んでいるという情報をつかんだ。秀吉は彼女らを姉妹として認め、それなりに処遇すると嘘を言い、上洛を促したのである。
姉妹らは秀吉が嘘を言っていることに気付かず、突然の幸福に酔いしれ上洛した。ところが、秀吉は上洛した姉妹を捕らえると、すぐに付き従っていた女性ともども斬首したのである。
『日本史』には、殺された秀吉の兄弟姉妹の名前すら記していない。秀吉は、知ろうともしなかったのか?秀吉が兄弟姉妹を殺したのは、『日本史』に書かれているとおり「己の血統が賤しいことを打ち消そう」としたからだろう。秀吉は、農民の子だったという。
大政所は貧しかったと推測され、弥右衛門と結ばれる以前に別の男性と関係し、子を産んだ可能性があるのかもしれない。むろん、秀吉の質問に対して、「産んだ」とは言えなかっただろう。秀吉は、天下人だったからだ。
今のところ、一連の『日本史』の記述を裏付ける史料はないので、兄弟姉妹が本当に大政所の子だったのか否かは、今後の課題になろう。