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平清盛に逆らって、非業の死を遂げた3人の人物とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
平清盛。(写真:イメージマート)

 平安時代末期に権力を掌握した平清盛は、誰もが恐れる存在だった。その清盛に逆らって、非業の死を遂げた人物がいたので、そのうち3人を取り上げることにしよう。

◎源義朝(1123~1160)

 平氏の清盛のライバルといえば、源氏の義朝である。保元元年(1156)に保元の乱が勃発すると、義朝は清盛とともに後白河天皇に味方し、崇徳天皇の陣営に勝利した。しかし、その後の恩賞配分で、義朝は清盛に劣ったと思い、不満を抱いた。

 平治元年(1159)、義朝は藤原信頼と組んでクーデターを起こし、見事に成功した。しかし、熊野詣に出掛けていた清盛は、すぐに京都に戻ると、義朝との戦いに勝利した。義朝は東国に逃走する途中、尾張国で長田忠致に殺害されたのである。

◎俊寛(生没年不詳)

 俊寛は法勝寺の執行で、後白河天皇に近習する僧でもあった。治承元年(1177)、俊寛は平氏に不満を抱く西光や藤原成親とともに、鹿ヶ谷の山荘で打倒平氏の謀議に及んだ。しかし、これはすぐに露見し、清盛は俊寛らをほかの2人とともに鬼界島への流罪としたのである。

 その後、清盛は流罪となった2人を許し帰京させたが、俊寛だけは許さなかった。俊寛は2人を乗せた船にすがりついたが、乗船は許されなかった。その後の俊寛の動静は不明であるが、その姿は能、浄瑠璃、歌舞伎の題材になったのである。

◎以仁王(1151~1180)

 以仁王は後白河天皇の第二皇子だったが、建春門院(平滋子)から嫌われたので親王になれず、王にとどまった。治承4年(1180)、平氏に不満を抱く源頼政が兵を挙げると、以仁王が擁立された。以仁王は令旨を各地に送り、平氏への挙兵を促した。

 しかし、頼政と以仁王の計画はすぐに露見したので、以仁王は園城寺に逃れた。その後、以仁王は奈良へと逃亡したが、途中の宇治川で頼政が平氏によって討たれた。その直後、以仁王も流れ矢に当たり、非業の死を遂げたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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