【大河ドラマ鎌倉殿の13人】承久の乱における北条泰時の巧みな人心掌握術とは
承久3年(1221)6月10日、仲恭天皇と、後鳥羽・土御門・順徳院は、近江から、都の高陽院殿にお戻りになりました。比叡山延暦寺が「鎌倉幕府軍の攻撃を防ぎましょう」と官軍に味方することを表明したことに意を強くしたものと思われます。
6月12日には、官軍が諸方に派遣されました。その中には、比叡山の僧兵3千騎が混じっていました。
官軍が防備を固めている頃、北条泰時と北条時房は、野路(滋賀県草津市)で軍勢を休ませていました。幸嶋四郎行時という武士は、小山新左衛門尉朝長ら親類を率いて、上洛しようとしていましたが(つまり、官軍に付こうとしていましたが)、北条泰時と長年交流があったので「諸方で戦い、傷つき死ぬことこそ、本望」と想い、一門衆を離れ、泰時がいる野路に馳せ参じたのでした。
時に泰時の陣では、酒宴の真っ最中でした。泰時は行時が来たのを見つけて、歓喜。盃を置いて、上座に座らせて盃を与えたのです。引出物として、馬も与えました(引いたのは、泰時の子・北条時氏)。
また、行時が連れていた郎従や小舎人童にまで、食事を与えたのです。行時は大いに感激したことでしょう。
泰時の人心掌握の巧さが垣間見えますが、泰時のこの振る舞いを見て、多くの人々が、勇猛心を掻き立てられたようです。(泰時様の為ならば)と意気に感じたのでしょう。
先ほど、泰時の「人心掌握」と書きましたが、泰時はそういったことを意図して、行時を歓待したわけではないと思われます。そうしたところが、一層、泰時の魅力を増したことと思われます。