かつて山梨を走った路面電車・山梨交通電車線が保存されている利根川公園(山梨県南巨摩郡富士川町)
国中地方の中心に位置する山梨県の県都・甲府市。鉄道と言えばJR中央本線とJR身延線の二つだけで、私鉄のない都市だが、約60年前までは路面電車が走っていた。今なお山梨県内で多数のバス路線を運行する山梨交通の「電車線」で、甲府駅前を起点に、南巨摩郡増穂町(現:富士川町)の甲斐青柳駅まで20.2キロを約55分で結んでいた。この電車は地元では「ボロ電」の愛称で親しまれていたという。
山梨交通電車線はモータリゼーションの進展や伊勢湾台風の被害を受けて、昭和37(1962)年7月1日に廃止。廃線跡は道路に転用され、60年以上が経った今ではその痕跡も薄れつつある。そんな電車の記憶を留める最大の遺構とも言えるのが、終点の二つ手前・長沢新町駅跡近くの利根川公園に保存された電車だろう。
利根川公園に保存されている電車の車番は「801」。昭和23(1948)年12月に汽車製造会社東京支店で製造された車両で、山梨交通電車線の廃止後は長野県の上田丸子電鉄に譲渡されて、丸子線で活躍した。昭和44(1969)年4月19日に丸子線が廃止されると、別所線に転属したがあまり使われることなく、昭和46(1971)年には神奈川県の江ノ島電鉄に再譲渡された。「801」は江ノ電での車番で、山梨時代の車番は「モハ8」だが、一部「モハ7」とする資料もある。モハ7とモハ8は同時に製造された兄弟で、上田丸子や江ノ電にも一緒に譲渡されて、最後まで運命を共にした。
江ノ電に譲渡されて801、802となった2両はここで2両編成を組んで活躍した。山梨時代は一両での運転が基本だったため、前後に運転台が設けられていたものの、江ノ電への譲渡時に片運転台化されている。昭和50(1975)年10月には3扉化、昭和55(1980)年にはライトの移設など改造を重ね、江ノ電では昭和61(1986)年4月28日に廃車された。801はその2か月後の6月11日に山梨に里帰りして利根川公園に保存展示され、相方の802は静岡県御殿場市内に個人所有で保存されている。
山梨での活躍がわずか14年で終わり、二度目の職場・丸子線も6年で廃止、留置期間と江ノ電での15年の活躍を経た801(モハ8)が、利根川公園に安住の地を得てから今年で38年になる。現役で活躍していたよりも長い期間を利根川公園で過ごしている801だが、塗装を除けばその姿は江ノ電時代の最晩年からほとんど変わっていない。台車は山梨時代からのものだが、山梨交通・上田丸子電鉄が国鉄・JRと同じ1067ミリなのに対し、江ノ電は1435ミリなので、改造で車輪の幅が広げられている。3つあるドアのうち中央のものは江ノ電時代に増設されたものなので、よく見ると前後のドアと比べて幅が違う。塗装は当初、茶色だったが、後に山梨交通時代のオレンジ色に塗り直されている。
電車のそばには説明板も立てられているが、38年前に設置されたものなので、少々傷みが目立つ。設置主体の増穂町は平成22(2010)年3月8日に鰍沢町と合併して富士川町となっている。
電車のそばの旧利根川はかつて天井川で、電車線は川の下をトンネルで潜っていたという。平野部を走る電車だったので、これが唯一のトンネルだった。そんな利根川も電車線廃止後の昭和40~50年代に河川改修されており、天井川の痕跡もほとんどない。公園から旧利根川を渡ったところの歩道には交通人形が立ち、今日も行き交う人や車を見守っている。
山梨、上田、湘南と渡り歩き、故郷の山梨でひっそりと余生を過ごす御年75の電車はこれからも、国中地方を走った「ボロ電」の歴史を伝えていくことだろう。