デイル・ボジオ/私を愛したフランク・ザッパとプリンス【前編】
デイル・ボジオが自伝『Life Is So Strange: Missing Persons, Frank Zappa, Prince & Beyond』を海外で刊行した。
ミッシング・パーソンズのシンガーとして1980年代前半にヒット・チャートを騒がせたデイルだが、そのエンタテインメント・ビジネス歴は長い。1970年代に女優を目指してハリウッドに向かった彼女は運の巡り合わせでフランク・ザッパのバンドに加入。ホテルの窓から40フィート(12メートル)転落するという事故を経ながらも奇跡の復活、プリンスを筆頭に数々のロマンスを経ながら現在に至るまでミッシング・パーソンズを率いて活動中だ。彼女の自伝のページをめくるたびに新しい出会いと別れ、新しい人生の転機が綴られており、本を置く暇(いとま)もない。
デイルとのインタビューもまた、同じぐらいスリリングなものだ。1955年生まれ、67歳となるデイルだが、少女のようにはしゃいだかと思えば、年輪を経た賢者のように人生を語る。全2回のインタビューで、彼女は自らが遭遇してきたさまざまな人々や出来事について話してくれた。
まず前編では、その人生に大きな影響をおよぼしたフランク・ザッパとプリンスとの交流について訊いてみよう。
<フランク・ザッパから人生のあらゆることを学んだ>
●あなたの自伝『Life Is So Strange: Missing Persons, Frank Zappa, Prince & Beyond』を読むと、ページをめくるたびに驚くべき何かが起こって、良いことも良くないことも含め、あなたの人生が退屈から程遠いことが窺えます。
私の人生だって、何もない日だってあるわ(笑)。何かが起きるときは、一気に起きるものなのよ。一日家でゆっくり過ごすこともある。自伝を書くのも机に向かって膨大なメモを書き留める作業だったし、端から見たら決してエキサイティングなものではなかったと思う。私自身にとってはスリルそのものだったけどね!これまで歌詞を書くことはあったけど、本を書くのは初めてだった。自分の物語を文章で語るのは新しい経験で、とても刺激的だったわ。自分自身のことではあっても、かなり変わった人生だしね。
●自伝を読むと、あなたが自宅に引きこもっているところを想像するのは難しいですが、新型コロナウィルスの蔓延下で、どのように生活していましたか?
ちょうどこの本を書き終えた頃、COVID-19の流行が始まったのよ。だからずっと自宅でじっとしていたわ。元々私はそれほどパーティーが好きでもないし、静かに家に引きこもっているのが苦にならないのよ。歌詞や詩を書いたり、自伝の延長線上でいろんな文章を書き付けたりして、けっこう楽しく毎日を過ごしているわね。私には2人の息子がいて、もう立派な大人だけど、彼らがいることで力を与えてくれる。前進していけるように背中を押してくれるのよ。彼らがいれば、孤独を感じることはないわ。
●あなたが音楽ビジネスと関わるようになったのは1975年、フランク・ザッパと出会ってからのことですが、彼との活動はどんなものでしたか?
ひとことで言って“冒険”だった。私はマサチューセッツ州のメドフォードという地方都市に生まれ育って、21歳のときにカリフォルニアに来たのよ。女優になるつもりで、その足がかりとしてプレイボーイ・マンションでバニーガールになる筈だった。それはうまく行かなかったけど、フランクと知り合って、彼のバンドに入ったわ。6ヶ月後に“ホリデー・イン”ホテルの窓から40フィート落下する事故に遭って、ボストンに運ばれて入院することになったのよ。映画『ベイビー・スネイクス』(1979)でテリー・ボジオが、私の事故について話しているシーンがある。まだ完治していない状態でフランクのヨーロッパ・ツアーに同行して、その後にテリーやウォーレン・ククルロと独立してミッシング・パーソンズを結成したけど、フランクとはずっと親しい友人だった。彼が亡くなったとき(1993年)は、自分の一部分を失ったようだったわ。その後も私は、彼から教わったことを続けてきた。テリーやウォーレン、パトリック・オハーン、チャック・ワイルドもフランクからあらゆることを学んできたわ。彼ら自身が天才的なミュージシャンだったし、独立してからもフランクから学んだことを糧にして成長していったのよ。
●あなたはフランクのバンドにいるとき音楽理論をまったく知らず、オクターヴとは何かすら知らなかったそうですが、自分のいるバンドが世界で最も高度なテクニックを持ったミュージシャンの集団だということに気づいていましたか?
うん、彼らが超一流のミュージシャンだと判っていたわ。彼らが演奏しているのを見るだけで、ただならぬオーラが感じられた。スタジオではジョークを飛ばしたり、みんないつも笑っていたけど、音楽に対しては常にシリアスだったわ。フランク達と一緒にやっていて、私は毎日頭がグルグル回っていた。でも彼らは私に歌うことを教えてくれた。私は21歳、身長が5フィート2インチ(157cm)の女の子で、音楽のこともビジネスのことも判っていなかった。フランクは嫌な顔もせず、いつも丁寧に教えてくれたわ。あるときこっそり打ち明けたのよ。「音楽のことはまったく知らない」って。「楽譜を読めないし、オクターヴとは何かも判らない」と言ったら、フランクは「大丈夫。今日家に帰ったら、本で調べてごらん」と微笑んでくれたわ。
●フランクは自分のバンドのミュージシャン達にどのように接していましたか?
彼は師匠であり、父親であり、友人だった。さらに彼自身が優れたミュージシャンで、他のメンバーが帰った後も1人残ってギターを弾いていた。天才でありながら、誰よりも努力していたのよ。それに彼はバンドのミュージシャンをいつまでも自分の手元に置いておくのでなく、自由に羽ばたいていくよう働きかけていた。ウォーレンとテリー、私に「君たち3人でキュート・パーソンズというバンドを結成するべきだ」と言っていたわ(笑)。3人ともルックスがキュートだから...と説明していたけど、私たちは新しいバンドでラディカルな音楽性を追求するつもりだったし、その名前ではシリアスに捉えてもらえないと思って、ミッシング・パーソンズと名乗ることにしたのよ。フランクのバンドから“消失した”メンバーだからね。
●1980年にミッシング・パーソンズを結成したとき、フランクから音楽的なアドバイスを受けましたか?
フランクは「メンタル・ホップスコッチ」をすごく気に入っていた。「大好きだ」と言っていたわ。ただ、彼は私たちの音楽について何も意見してこなかった。まるで父親のように私たちのデモをニコニコしながら聴いていたわ。彼はスタジオを無料で使わせてくれたし、まさにミッシング・パーソンズの父親的存在だった。「何日かしたら戻ってくるから」と言って、レコーディングに立ち会うこともなく、自由にやらせてくれたのよ。
●あなたが一番好きなフランク・ザッパのレコード、あるいは楽曲は?
「エニイ・ウェイ・ザ・ウィンド・ブロウズ」(1966)が一番好きね。メロディを口ずさめて、どこか懐かしくて...フランクは膨大な数の曲を発表してきたし、すべてを聴いたわけではないけど、彼は優れたポップ・ソングライターでもあった。ユーモアや政治的なメッセージ、もの凄いテクニックとミュージシャンシップもあったけど、素晴らしい曲を書いていたのよ。
●あなたは1975年から1980年までフランクと行動を共にしていましたが、1978年に採譜担当として参加したギタリストのスティーヴ・ヴァイとも交流がありましたか?
うん、スティーヴは才能のあるギタリストだった。私より若くてハンサムで、少年といえるほどだったわ。でもフランクと一緒にやっている他のミュージシャンと同様に、音楽に対する情熱を持っていた。あまりプライベートで交流することはなかったけど、彼もまたフランクの元を巣立って成功を収めた1人ね。
●フランクが亡くなったのは52歳という若さでしたが、彼との関係が性的なものに発展することはまったくありませんでしたか?
誤解する人も多いけど、フランクと私のあいだにロマンスが芽生えることはなかった。彼は無償の愛を与えてくれて、私を守ってくれて、おでこに3回キスしてくれた、それだけよ。最後に会ったのは亡くなる直前、病院のベッドだった。彼にとって私はコメディアンで、いつも笑わせていた。そのときも彼は笑っていたけど、途中から2人とも泣いていたわ。さよならだと判っていたからね。おでこにキスして「愛している」って言ってくれて、それがお別れの挨拶だったのよ。
●彼の音楽は、今日でも世界中で愛されています。
フランクのお墓はプライバシーのために公にされていないけれど、家族と親しい友人だけが場所を知っている。私はよく花束を持って会いに行って、自分にあったことを報告するようにしているのよ。「昨日フォーラムでライヴをやったのよ!」とか「本を書いたのよ!」とかね。きっと彼は微笑んでいると思う。次に行ったら「日本のジャーナリストと、あなたの話をしたわ!」って報告するわ(笑)。
●フランクから学んだ最も大きなことは何でしょうか?
人生のあらゆることを学んだわ。自伝に書かれていることの多くは、フランクと出会わなかったら実現しなかった。彼は私を誇りにしてくれたし、私は期待に応えられるように頑張った。 感謝しているし、いつまでも愛しているわ。私にとって、成功とは経済的なものではない。豪邸に住んでいないし、ランボルギーニにも乗っていない。1人でいるのは好きじゃないから、広い家に住んでいたら友達を50人呼んできて一緒に暮らすけど、それはちょっと難しいかな(笑)。でも私には2人の息子がいて、いつもハッピーに過ごしている。それが私にとっての成功よ。ランボルギーニはないけど、自分の足で歩いて、時に立ち止まって、花の匂いを嗅いだりする。『Life Is So Strange』は自分が正直に生きてきたことの証しよ。それを読んでくれる人が世界のどこかにいて、彼らの心に何かを残すことが出来たら、私の夢が叶ったと言えるわね。それが私にとっての成功だわ。
<プリンスと初めて会った日にプロポーズされた>
●1986年、プリンスと知り合ったとき、あなたはどんな活動をしていましたか?
ミッシング・パーソンズが終わって、次に何をするか考えていた時期だった。そのときのマネージャーがプリンスと仕事をしたことがあって、「プリンスはロサンゼルスにいると大体このクラブにいるから、会って話してみたら?」と教えてくれた。初対面で彼の鼻をツンッて突っついたら、面白いと思ってくれて、すぐに意気投合したわ。その日のうちにプリンスとは親密な関係になった。彼の周囲にいた他の女の子たちがどう思ったか知らないけど、2人の間にはロマンスがあったわ。
●プリンスはどんな人でしたか?
彼は子供っぽいところのある人で、結局それが原因で別れることになった。でも彼の無垢な部分は長所で魅力でもあった。だから今でも彼のことは愛しているし、彼との思い出は輝いているわ。その一方で、彼は自分のプライベートな部分を大事にする人で、他人に踏み込ませようとしなかった。自分の存在に不安で、孤独だったのよ。でも彼は心を開くことの出来る相手をいつも探し求めていた。初めて私と会った日に「今すぐラスヴェガスに行って結婚式を挙げよう」とプロポーズしてきたのも、そんな欲求の表れだったのかも知れない。私はこう見えて保守的だから、初対面の相手と衝動的に結婚することは出来なかったけどね!
●プリンスの“ペイズリー・パーク”レーベルからアルバム『Riot In English』(1988)を発表しましたが、どんな思い出がありますか?
『Riot In English』はロバート・ブルッキンスというプロデューサーと一緒に作ったのよ。私にジャクソンズのジャッキー・ジャクソンを紹介してくれたのもロバートだった。彼とも後に交際することになったけど、それはまた別の話ね(笑)。シングルになった「Simon Simon」という曲で私が書いた歌詞はプリンスについてだったけど、彼本人には言わなかった。この曲ではスティーヴ・ルカサーがギターを弾いているわ。プリンスは「So Strong」という曲を書いて、私にプレゼントしてくれた。彼が亡くなったとき、彼のことを思い出しながらこの曲を聴いたけど、「So Strong」が私への想いを歌っているのだと気づいたわ。それまでは彼が自分のことを歌っているのだと思っていたのよ。彼は楽曲について明確なヴィジョンを持っていて、具体的にどう歌って欲しいか指示してきた。だからレコーディングもスムーズだったわ。ロバートとはもう1枚アルバムを作ろうって話していたけど、亡くなってしまって悲しかった。
●あなたとプリンスの終わり方は非常に残念なものでした。
そう、クリスマスの日、私の父親が入院して付き添うから一緒にいられないと言ったら、「俺と父親のどっちを選ぶんだ?」と迫られたのよ。何故彼がそんな選択を迫ったのか、未だに私には判らない。私を自分のコントロール下に置きたかったのか、それとも私と別れるつもりだったのか...電話で「お前はクビだ!」と叫ばれたときは、自分の耳を疑ったわ。私は“ペイズリー・パーク”レーベルの契約アーティストだったけど、それ以前に個人的な絆があると思っていた。それが「クビだ!」だからガッカリしたわ。
●“ペイズリー・パーク”からあと2枚アルバムを出す予定だったそうですが、どんな音楽性になったでしょうか?
ポップでメロディがあってダンサブルで...きっと世界中のヒット・チャートのトップを突き抜けたでしょうね。プリンスが私に声を荒げたのはそれが初めてだった。「契約は打ち切りだ。いくら欲しい?」って言われて、こっちも「明日までに5万ドル振り込んで」と言ったわ。本当は金額の問題じゃないけど、もう終わりにしたかった。彼はさよならも言わなかった。プリンスは“ノー”と言われるのが堪えられない人間だったのよ。でも私は何にでも“イエス”と言う人間ではない。早かれ遅かれ、ああいう形で終わっていたでしょうね。
●...とても悲しいです。
でもプリンスは最高にスウィートな人間でもあった。彼は私が付けていたカルヴァン・クラインのコロン“オブセッション”を気に入って、「その香りは何?」と訊いてきた。“オブセッション”だと教えてあげたら、部屋一杯の“オブセッション”をプレゼントしてくれたのよ。千本ぐらいあったのかしら、私一人で全部を使おうとしたら何百年かかるか...そんなズレた所も彼らしかった。彼なりの不器用な愛情表現だったのよ。いつもベタベタしていたわけではないし、お互い忙しかったから会えないときもあったけど、一時は愛し合っていたことは確かよ。彼は嫉妬深くもあって、「他の男と一緒にいるところを写真に撮られないで欲しい」と言っていた(笑)。
●プリンスと最後に連絡を取ったのは?
電話で話したときが最後だった。プリンスとはたくさんの思い出があるわ。彼はよく『スプリング・セッションM』を自宅で大音量で聴いていた。「ウィンドウズ」がお気に入りだと言っていたわ。亡くなる直前にもミネアポリスのレコード店に自転車でやって来て、ジョニ・ミッチェルやアース・ウィンド&ファイアのLPレコードと一緒に『スプリング・セッションM』を買っていったらしいわ。彼とは「ユー・ガット・ザ・ルック」をデュエットする話もあったのよ。
●プリンスから「ユー・ガット・ザ・ルック」での共演を申し込まれたのですか?
うん、私にデモを聴かせて、一緒にレコーディングしようと言ってきたわ。「うーん、あまり歌いたくない」と断ったのを覚えている。そうしたらティナ・マリーだか誰だったかとレコーディングしていたけどね。ミュージック・ビデオで彼女が着ていたドレスも、私のために用意したものをそのまま使っていた(苦笑)。
●プリンスはティナ・マリーでなくシーナ・イーストンと「ユー・ガット・ザ・ルック」をデュエットしましたが、あなたと同時進行で二股をかけていたのでしょうか?
どうかしらね。もしかしたら私と同時にシーナ・イーストンとも関係を持っていたかも知れないけど、私は気にしていなかった。誰も彼とは深い人間関係を築くことが出来なかった。あの時期、私は彼と最も近い存在だったけど、それでも彼の心の中に入っていけたか判らない。彼はとても脆い人間で、誰にも立ち入らせない部分があった。
●プリンスの曲でお気に入りのものはありますか?
うーん、答えられないわ。フランクの曲をすべて聴いたわけではないのと同様に、プリンスの曲もすべては聴いていないのよ。映画『パープル・レイン』も未だに見ていないぐらいだからね。毎日を生きるのに必死だから、すべての音楽を聴くことは出来ないわ。“ホリデー・イン”の窓から転落したとき、お医者さんに「あなたが生きているのは奇跡だ。残りの人生を大事に過ごしなさい」と言われた。1976年のその日から、毎日が1度しかないことを噛みしめて、神様に感謝しながら生きるようになったわ。躊躇する時間はないし、踏み出していくしかない。やって後悔する方が、やらないで後悔するよりもマシよ。明日のために、今日を戦うのよ。
後編記事ではデイルが自らの音楽活動、マイケル・ジャクソンとの思い出、華麗なる遍歴までを語る。
【公式ウェブサイト】
【自伝公式サイト】
【関連作品】
『ZAPPA』
フランク・ザッパ初のオフィシャル・ドキュメンタリー映画
4月22日(金)よりシネマート新宿・シネマート心斎橋にて、ほか全国順次公開
公式サイト https://zappamovie.jp/