ロック界のスーパー・ドラマー、クリス・スレイドから見たAC/DC、G・ムーア、ザ・ファーム【後編】
ザ・クリス・スレイド・タイムラインを率いてファースト・アルバム『Timescape』を発表したロック界屈指のドラマー、クリス・スレイドへのインタビュー、全2回の後編。
前編記事ではニュー・アルバムとそのキャリアの原点であるトム・ジョーンズ、そしてユーライア・ヒープなどとの活動を振り返ってもらったが、今回はAC/DC、ゲイリー・ムーア、ザ・ファームなど、彼の名前を世界に轟かせたアーティスト達について訊いた。彼はまた、その日本愛についても話してくれた。
<ザ・ファームが長期的なバンドではないことは判っていた>
●1984年にジミー・ペイジとポール・ロジャースの双頭バンドとして始動したザ・ファームでの活動について教えて下さい。
ザ・ファームに参加することになって、すごくエキサイトしたのを覚えているよ。ジミーとポールの“スーパーグループ”の一員になることにスリルを感じた。一緒にアルバムを2枚作って、世界をツアーしたのも最高の経験だったね。ただ、あのバンドが長期的ではないことは判っていた。みんな仲が良かったし、音楽のケミストリーもうまく行っていたけど、やるべきことはやった感があった。いつかまたあの4人でステージに立てたら最高だけど、誰かの孫の結婚式とか、そういう規模のものになるだろうね。
●ザ・ファームをやっていた1980年代中盤、“ライヴ・エイド”でのレッド・ツェッペリン再結成があり、ジミー・ペイジとロバート・プラントがお互いのアルバムに参加するなどしましたが、あなたはツェッペリン復活ツアーのドラマーとして誘われたりしませんでしたか?
そういう話はなかったな、残念ながらね(苦笑)。彼らがそういう計画を立てていたかも知らない。もし誘われたら、喜んで参加していたよ。ツェッペリンは最高のロック・バンドで、ジョン・ボーナムは凄いドラマーだったからね。
●ザ・ファームでは当初ピノ・パラディーノがベーシストの候補に挙がっていたそうですが、結局トニー・フランクリンが加入することになりました。それにはどんな事情があったのですか?
ピノはゲイリー・ニューマンやポール・ヤングとのセッションで高い評価を得ていたし、あちこちから声がかかる売れっ子ミュージシャンだったんだ。だからひとつのバンドに落ち着くよりも、いろんなことをやってみたかったのかも知れない。トニー・フランクリンはジミーの友人だったロイ・ハーパーのバンドから連れてきたんだ。彼はベースはもちろんキーボードも弾けて、歌うことも出来たから、ザ・ファームにとって強力な武器となったよ。
●あなたとピノはゲイリー・ニューマンの『アッサシン I, Assassin』(1982)に一緒に参加していましたが、コンビのような感じだったのですか?
ピノと一緒にプレイするのはいつだって楽しいけど、コンビというわけではなかった。セッション・ミュージシャンとして同じ現場に呼ばれたんだよ。“ピノ・パラディーノ”という名前だからイタリア人なのかと思う人も多そうだけど、彼も私もウェールズ出身なんだ。ピノは私がユーライア・ヒープで一緒だったシンガーのジョン・スローマンと学校時代の友人だった。ジョンが「良いベーシストがいる」って紹介してくれたんだよ。で、ゲイリー・ニューマンがフレットレス・ベースを弾ける人を探しているというんで、私が薦めたんだ。元々、ピノはギタリストだった。ジミー・ペイジみたいにダブル・ネックのギターを弾いていたよ。彼がレコーディングでベースを弾いたのは『アッサシン』が初めてだったんだ。ゲイリーはエレクトロニック・アーティストとして知られているけど、ピノと私でソウルを注入したんだよ(笑)。
●ジョン・スローマンは後にポール・ヤングのツアーにバック・ヴォーカリストとして参加しますが、それはピノのツテだったのでしょうか?
どうだろうね?知らないけど、その可能性はあるね。ジェネシスのサポート・アクトとしてポールが起用されたとき、“ウェンブリー・スタジアム”に見に行ったことがあるよ(1987年7月)。ライヴ・パフォーマンスは素晴らしかったけど、音が酷かったのを覚えている。まあ野外スタジアムだから仕方ないんだけどね。
●ジョン・スローマンは1982年の終わりから1983年の前半にかけてゲイリー・ムーアのバンドで歌って、そのゲイリーのバンドにあなたが1989年に参加するのだから、世界は狭いですね。
そうだよね(笑)。ジョンとはずっと友達だし、今でも連絡を取り合っているよ。彼はコンスタントにアルバムを出しているし、伸びのある声をしているよ。ほとんどの楽器を自分で演奏しているし、才能に溢れたアーティストだね。
<ゲイリー・ムーアは他人に対して以上に自分に厳しいミュージシャンだった>
●1989年にコージー・パウエルの後任としてゲイリー・ムーアのバンドに加入して、ジャパン・ツアーにも同行しましたが、彼との活動はどのようなものでしたか?コージーやジンジャー・ベイカー、ゲイリー・ハズバンドなどはゲイリーが細かいところまでをコントロールして自由がない、と言っていた一方で、サイモン・フィリップスは自由に叩いていたと話していましたが、あなたはどうだったでしょうか?
ゲイリーは自分が求めるものを明確に相手に伝えるタイプだった。ドラマーによっては、それに抵抗がある気持ちは理解できる。アルバムと同じように叩くのは、自分自身をコピーすることになってしまうってね。確かに窮屈に感じるドラマーもいただろう。ただ彼は他人に対して以上に自分に厳しいミュージシャンだったし、私は彼の期待に応えるようベストを尽くした。ゲイリーは気の良い人で、彼のバンドでやる前から、何度かパブでビールを飲んだりして、仲が良かったんだ。
●ゲイリーは1989年のツアーの後、『スティル・ゴット・ザ・ブルース』(1990)でブルース路線に進みます。あなたもそれに対応できた筈ですが、声はかからなかったのですか?
うん、契約は『アフター・ザ・ウォー』ツアーだけだったからね。おそらく彼はロック時代と異なるミュージシャンとやってみたかったんじゃないかな。
●あなたはAC/DCの『レイザーズ・エッジ』(1990)で素晴らしいドラムスを聴かせていますが、AC/DCといえばフィル・ラッドのプレイがファンの心に刻み込まれていて、あなたやサイモン・ライトなど、他のドラマーがいかに良いプレイをしても違和感をおぼえてしまいます。
それは仕方ないことだよ。フィルは地球上で最も売れたアルバムのひとつである『バック・イン・ブラック』(1980)でプレイしたし、彼こそがACDCのドラマーなんだ。でも彼が参加できないときはどうするか?ツアーを中止にするか?あるいは別のドラマーを立てるか?バンドはツアーをやることに決めて、私に声をかけてきた。私に出来るのは、お客さんのためにベストを尽くすことだ。「お前なんかフィル・ラッドじゃない!」と言うファンもいるだろう。その通りだ。私はフィルではない。ただ、『レイザーズ・エッジ』を愛してくれるファンは世界中にいるし、「サンダーストラック」はライヴで最大級に盛り上がる曲だ。この曲でプレイしたことを思い出すたびに笑顔が漏れるよ。マルコム・ヤングはまだ存命だった。AC/DCはマルコムのリズム・ギターで成り立っていたんだ。もちろんアンガス・ヤングのリード・ギターやブライアン・ジョンソンのヴォーカルも大事だ。でもバンドの背骨を貫くリズム・ギターは不可欠だったよ。アンガスが自由に弾きまくることが出来たのは、マルコムがリズムをがっちり支えていたからなんだ。
<東洋の武道に惹かれるんだ。精神面を重視するからね>
●あなたは数々のトップ・ギタリスト達と活動してきましたが、これから一緒にやってみたい人はいますか?
ガスリー・ゴヴァンとはエイジアで一緒にやったことがあったけど、オリジナルな音楽で共演してみたいな。彼は凄いギタリストだよ。ガスリーはジェイムズ・コーンフォードの師匠でもあるんだ。それと、もしアラン・ホールズワースが生きていたら、アルバムを作りたかったね。彼とは2回ぐらい会ったことがあって、ジャムをしたこともあるんだ。とても光栄だったよ。
●まだ共演したことがなくて、やってみたい人はいますか?
うーん、思いつかないな。この歳になってしまうと、憧れの人は亡くなってしまっているからね。ジェフ・ベックとはやってみたかった。...そうそう、エイジアといえば、彼らから加入要請は電話でもメールでもなく、郵便で来たんだ。1999年だったかな、マネージャーも通さず、ジェフ・ダウンズとジョン・ペインが連名で手紙を書いてきた。それまで面識もなく、サセックスの当時の自宅にある日手紙が届いたから驚いたよ。「親愛なるクリスへってね」(笑)。後になって、AC/DCの「サンダーストラック」のビデオを見たと言っていた。私はカール・パーマーのスタイルをそれなりに知っていたから、うまく対応することが出来たよ。面白かったのは、後になってカールがTVのインタビューで「自分はどうしてもトリッキーなオカズを入れたくなる。きっとAC/DCでは務まらない」と言っていたんだ(笑)。私はトム・ジョーンズのバンドでプロとしてのキャリアを始めたのが幸運だったと思う。彼と活動した7年で、ストレートなポップからジャズ・テイストのある曲まで、さまざまなタイプのプレイを学ぶことが出来た。
●最後に日本に来たのはいつですか?
今のところ最後に来たのはレッド・ツェッペリンのトリビュート・バンドでツアーしたときだった(VONZEP/2011年3月)。ジミー桜井はジミー・ペイジ本人以上にツェッペリンの曲を熟知していて、素晴らしい経験だったよ。大地震と津波の前日まで滞在していたんだ。そのときも高層ホテルで地震に遭った。朝、ホテルの部屋が揺れて、工事をしているみたいな音がしたんだ。いざというときは窓ガラスを割って、すぐ下にある池に飛び込もうと考えたよ。そのときも驚いたけど、日本を離れた翌日に東日本大震災があったのはショックだった。日本は大好きなんだ。もう10回近く行ったことがある。ツアーだけでなく、武道の関連でも訪れているよ。
●武道の関連...ですか?
そう、長年弓道を修めていて、三段を取得しているんだ。それから松濤館空手、合気道、日本刀、棒術...AC/DCの音楽はMMA(総合格闘技)やフットボールのような西洋のスポーツのTV中継で流れることが多いし、「サンダーストラック」なんて軍隊でも愛聴されているけど、それよりも私は東洋の武道に惹かれるんだ。精神面を重視するからね。でももちろん西洋の格闘技も否定はしないよ。ギタリストのジェイムズはブラジリアン柔術をやっている。AC/DCの『レイザーズ・エッジ』(1990)のレコーディングをダブリンの“ウィンドミル・レイン”スタジオで行ったとき、オフの時間を利用して日本語を数週間学んだことがあるんだ。ひらがなとカタカナを習ったよ。時間がなくて漢字までは至らなかった。日本語は文字からも独自の哲学を感じるね。またいつか続きを学びたいと考えている。
●日本の武道はロック・ドラミングに何らかの影響を及ぼしましたか?
ロック・ドラムスを始めようという若者には武道を修めることをお勧めするよ。ドラマーにとって体力は大事だし、自分を律することが出来ることも役に立つ。それに“自分を信じる”ことで、人間としてミュージシャンとして向上することが出来るんだ。それは禅と通じるものがある。もう十数年、禅を学んできたんだ。ツアー中でも毎日瞑想するようにしているよ。私はかつてベジタリアンでもあった。今は違うけどね。大事なのは、自分の頭で考えることだ。そう学校で教わったから、学校に行くのを止めたんだ(笑)。
●今後の活動について教えて下さい。
今はザ・クリス・スレイド・タイムラインの活動が最優先なんだ。シリアスに考えているし、2枚目のアルバムも作る気だよ。ライヴではアルバム『Timescape』からの曲や、私がプレイしてきたいろんなバンドの曲も披露する。AC/DCはもちろんデヴィッド・ギルモアやジミー・ペイジ、ユーライア・ヒープ、マンフレッド・マンズ・アース・バンド...メンバーは全員が優れたミュージシャンシップを持ち備えていて、一緒にやって本当に楽しいんだ。世界のどこでもプレイするし、ぜひ日本にも呼んで欲しいね。
【最新アルバム】
The Chris Slade Timeline
『Timescape』
(Bravewords Records / 現在発売中)
【公式サイト】