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ノヴォ・コンボ復活。メンバーが語るウッドストック&オルタモント、R・ストーンズ、クロマティ【後編】

山崎智之音楽ライター
Novo Combo / courtesy WildRoots Records

42年ぶりのニュー・アルバム『45 West 55th』を発表したパワー・ポップ/ニュー・ウェイヴ・グループ、ノヴォ・コンボへのインタビュー、全2回の後編。

前編記事ではマイケル・シュリーヴ(ドラムス)とピート・ヒューレット(ギター、ヴォーカル)の2人に主にアルバムについて語ってもらったが、今回はバンドが活動した1980年代初頭のニューヨークの音楽シーン、そして彼らが共演してきたさまざまなミュージシャン達との交流について訊く。

Novo Combo『45 West 55th』(WildRoots Records/現在発売中)
Novo Combo『45 West 55th』(WildRoots Records/現在発売中)

<1980年のニューヨークではエキサイティングなことが起こっていた>

●ノヴォ・コンボはニューヨークの“リッツ”、“サヴォイ”、“トラックスNYC”、“パレディアム”などの会場でライヴをやっていたそうですが、どんなアーティストと交流がありましたか?

マイケル:ザ・フーのピート・タウンゼントはノヴォ・コンボを応援してくれて、よく“リッツ”にライヴを見に来ていたよ。背が高くて、曲に合わせて飛び跳ねていたから、すごく目立っていた(笑)。クリーヴランドだかのザ・フーのライヴに前座として出演したこともあった。チープ・トリックのツアー・サポートをしたこともあったし、グレッグ・レイクの北米ツアーでサポートもしたんだ。1980年代の初めはエキサイティングな時代だった。実験的なロックもあったし、ヒップホップが生まれたところだった。アコースティック・クラブではジェイムズ・テイラーがアコースティック・クラブでやっていたり、シーンが活発だったよ。私たちはロングアイランドの“マイ・ファーザーズ・プレイス”やニュージャージー、ペンシルヴァニア東部のクラブでもプレイしていた。いろんなクラブがあったんだ。ノヴォ・コンボの“本部”だった西55丁目45番地のアパートは5番街と6番街のあいだにあって、近所にレコード会社のオフィスが集まっていた。その頃エアロスミスは低迷期で、いつも近所のデリ(軽食堂)にたむろしていたよ。それからブレイク前のシンディ・ローパーも近くの中華レストランにいた。いろんなパンク・バンド、それからラットみたいなメタル・バンドも見かけたね。

●ザ・ローリング・ストーンズとの交流が始まったのもその頃ですか?

マイケル:実際にはそれよりも少し前だった。プロデューサーのクリス・キムジーとの繋がりだったんだ。クリスとはオートマティック・マンのファースト『Automatic Man』(1976)をミックスしてもらって以来の知り合いだった。彼がストーンズの『女たち Some Girls』(1978)をプロデュースすることになったんで、「ミス・ユー」のセッションにパーカッションで参加した。ミック・ジャガーは何回か45丁目の“本部”に来たよ。当時“ローリング・ストーンズ・レコーズ”をやっていたアール・マグラスという人物とよくつるんでいた。後に有名なアート・コレクターになった人だよ。一度、私のアパートに来た帰り、彼らは『女たち』のラフ・ミックスが入ったカセット・テープをタクシーに置き忘れてしまったんだ。それでアールがタクシー会社に電話して、そのテープを発見した人に250ドルの懸賞金を出すと言ったそうだ。でもその場にミックもいて、「いや、200ドルだ」と値切ったんだって(苦笑)。その後、私はザ・ローリング・ストーンズの『エモーショナル・レスキュー』(1980)でもパーカッションをプレイした。ちなみにクリスはノヴォ・コンボのファースト・アルバム『ウィ・ニード・ラヴ Novo Combo』 (1980)もミックスしてくれたよ。

●当時のニューヨークの“CBGB”や“マックス’s・カンザス・シティ”などのシーンとは交流がありましたか?

マイケル:ノヴォ・コンボではそれらのクラブでライヴをやったことはなかったけど、1960年代、サンタナで初めてニューヨークに行ったときに“マックス’s”に連れていかれたよ。オデッタとディナーをしたこともあった。今から思えば、ニューヨークに住んでいるときにもっと足を運んでおくべきだったと思うね。ダウンタウンのジャズ・シーンではジョン・ゾーンやビル・フリゼールが興味深いことをやっていた。地下室みたいなクラブでフィリップ・グラスを見たこともあったよ。

いろんなエキサイティングなことが起こっていたんだ。

●ノヴォ・コンボはグレッグ・レイクの1981年北米ツアーにオープニング・バンドとして同行しましたが、それはどんな経験でしたか?

マイケル:楽しかったよ。ツアー中の扱いも良かったし、グレッグのバンドのギタリスト、ゲイリー・ムーアが凄かったんだ。毎日サウンドチェックで見ていたし、何回かジャムをした。彼は普段はスウィートなのに、ギターをプラグインすると炎に包まれるんだ。凄かったね。もう40年前のことなのに鮮明に覚えているよ。

●ゲイリー・ムーアの「パリの散歩道」はサンタナの「哀愁のヨーロッパ」と比較されてきたし、ピーター・グリーンのギブソン・レスポールを弾くなど、あなたの音楽キャリアとも少なからず接点がありますね。

マイケル:そう、すべてはどこかで繋がっているんだよ。その後、グレッグやゲイリーと会う機会はなかったけど、新しいアルバムが出れば出来る限り聴くようにしていたし、ずっとファンだったよ

Michael Shrieve  / courtesy WildRoots Records
Michael Shrieve / courtesy WildRoots Records

<今後の新作の可能性は...?>

●ノヴォ・コンボは業界のさまざまなコネクションがあったにも拘わらず『ウィ・ニード・ラヴ』と『アニメイション・ジェネレイション』(1982)の2枚のアルバムを発表して解散しますが、どのようにして終わったのですか?

マイケル:まあ、よくある話だよ。最初にジャック・グリフィスが「他のことをやりたい」と脱退したんだ。それでカルロス・リオスというギタリストを迎えることになった。ロサンゼルス周辺のセッション・シーンでやっていて、ジノ・ヴァネリのバンドで活動していたプレイヤーだ。そうして彼を加えて『アニメイション・ジェネレイション』を作ったんだ。カルロスは素晴らしいギタリストだったけど、ファーストのようなマジックがないのは明らかだった。理屈ではないんだ。アルバムのセールスも良くなかったし、レコード会社から契約を切られることになった。

ピート:2作目はエリオット・シャイナーがプロデュースを手がけたこともあって、サウンドが大きく変化したんだ。良いとか悪いとかでなく、とにかく異なっていた。それが受け入れられなかったんだ。ツアーをやってもバックアップを得られなくて、赤字が溜まっていった。それでバンドは解散して、マネージャーが訴訟をちらつかせて...私はペンシルヴァニア、それからピッツバーグに拠点を移して、今も住んでいるよ。

マイケル:私もそれからは自分のバンドでやるのではなく、セッションを主戦場にしていった。さっそくミック・ジャガーが『シーズ・ザ・ボス』(1985)で声をかけてくれたりして、助かったよ。

●ノヴォ・コンボの“新作”がリリースされ、オリジナル・ラインアップ全員が健在ということで、今後再結成ライヴ、あるいは完全新録のアルバムも期待できるでしょうか?

ピート:長期のツアーに関しては、可能性は低いだろうね。新しいスタジオ・レコーディングは、『45 West 55th』の反応次第で考えるかも知れない。約40年ぶりに間近で触れてみて、ノヴォ・コンボはすごく良い音楽をやっていたと思う。だからたまに集まって新曲を書いたら面白いんじゃないかな。今回のアルバムは、スティーヴンがすごく前向きだったんだ。すべては彼のおかげだよ。

Pete Hewlett / courtesy WildRoots Records
Pete Hewlett / courtesy WildRoots Records

<クロマティはドラマーとしても優れていた>

●マイケルに質問です。あなたはサンタナで1969年8月16日に“ウッドストック・フェスティバル”、同年12月6日に“オルタモント・スピードウェイ”でのコンサートに出演しています。どちらもロックの歴史において重要なイベントですが、まったく異なった意味を持つものとなりました。

マイケル:“ウッドストック”と“オルタモント”はまったく異なっていた。“ウッドストック”の頃はまだラヴ&ピース思想が健在だったんだ。でも“オルタモント”は別の世界だった。映画『ギミー・シェルター』(1970)の試写に呼ばれて、カルロスと見に行ったのを覚えているよ。確かミック・ジャガーやチャーリー・ワッツも試写室にいた。当初はサンタナの“オルタモント”でのステージの映像も含まれていたけど、カルロスは映画に関わりたくなかった。あまりにダークな空気が漂っていたんだ。最近になって流出した映像を見たけど、カルロスの判断は正しかったと思うね。1日中、会場内を重苦しい空気が漂っていて、何か悪い事が起こる予感がした。ステージがすごく低くて、警備で雇われたヘルズ・エンジェルズが目の前にいたんだ。彼らは押し寄せる観客を棒で殴ったり、酷いものだった。何が起こっているんだ?と暗い気分になったよ。あの場にいたくなくて、ライヴが終わったらすぐに退散したよ。その後に観客が1人亡くなったと聞いて、本当に悲しかった。

●“ウッドストック”の直前、8月9日にはチャールズ・マンソンの“ファミリー”によるシャロン・テイト他の殺人事件がありましたが、それは“ウッドストック”のムードに影を落としていましたか?

マイケル:いや、マンソンのことはテレビや新聞で報じられていたけど、それを“ウッドストック”と直接結びつける人は少なかったと思う。ロックンロールの暗黒面は、西海岸と結びつけられることが多かったんだ。私が17際のとき、親元を離れてサンフランシスコのヘイト/アシュベリーに向かった。薄汚れたティーンエイジャー達が通りゆく人々に小銭をせびりながら、路上でドラッグをキメていた。私はそういう連中と関わりを持ちたくなくて、練習前に「俺はヒッピーじゃない、俺はヒッピーじゃない...」と、マントラのように唱えていたよ(笑)。“ウッドストック”は全然違っていて、グッド・ヴァイブスがあった。

●マイケルはツトム・ヤマシタ’s GOとオートマティック・マンでギタリストのパット・スロールと組みましたが、それはどんな経験でしたか?

マイケル:パットは“ギター・ヒーロー”と“エゴのない控えめな人間”という矛盾を両立させている人物だ。彼とはいつもメールのやり取りをしているよ。今回のノヴォ・コンボみたいに、オートマティック・マンのデモや未完成トラックに新しいプレイを加えてアルバムにするプロジェクトも話し合っている。当時のリハーサル・テープを聴き返しているところだし、私のサンフランシスコの自宅にいろんな音源がある筈だ。

●パットは素晴らしいギタリストであるのに、滅多に弾きまくり速弾きプレイを聴かせてくれず、ファンとしてはフラストレーションが溜まります。いつかあなたと彼でスーパー・インストゥルメンタル・バトルのアルバムを作って下さい!

マイケル:ハハハ、パットに相談してみるよ(笑)。ただ、今の彼はギターよりもスタジオでプロトゥールズを操作することが多いようだ。君の言うとおり、彼は最高のギタリストだよ。少し前に新曲のデモを聞かせてもらったけど、やはりギター・プレイは素晴らしかった。私も彼にギターを弾きまくって欲しいけど、幸か不幸か、彼はスタジオ作業の才能も兼ね備えているんだ。彼とはもう50年近くの友人だよ。私の弟でギタリストのケヴィン・シュリーヴにテープを聴かされたんだ。彼を家に呼んでジャムをしたとき、彼が持ってきたアンプから煙が出て、みんな驚いたのが記憶に残っているよ。彼のプレイがホットだからだと思ったんだ!それで彼をオートマティック・マンに誘うことにした。

●マイケルとピートは何度も日本に来ていると思いますが、この国の印象はどんなものですか?

ピート:日本には素晴らしい思い出がいくつもあるよ。文化、自然、人々、食べ物などすべてが好きだけど、読売ジャイアンツのウォーレン・クロマティと出会ったのも日本だった。ビリー・ジョエルのバンドで、東京ドームでやったときだ。ボズ・スキャッグスやアート・ガーファンクルもいたよ(1988念、“KIRIN DRY GIGS ‘88”)。そのときクロウがバックステージに来たんだ。彼とは仲良くなって、そのときもらったジャイアンツのベースボール・キャップは今でも持っているよ。それから少しして、彼のロック・バンド、バンド、クライム(CLIMB)にシンガーとして参加して欲しいと頼まれたんだ。マイアミのスタジオに呼ばれて、1週間半ぐらいかけてアルバムをレコーディングしたよ。

(1990年にレコーディングされたが当時未発表で、2016年に発掘リリースされたセカンド・アルバム『Back In Action Again』で歌っている)

●クロマティはクライムのドラマーでしたが、彼の腕前をどう評価しますか?

ピート:クロウはドラマーとしても優れていたよ。ただの趣味とは一線を画したセンスがあった。もし野球をやっていなかったら、ドラマーとしてプロになっていたんじゃないかな。

●ラッシュのアルバム『シグナルズ』(1982)の裏ジャケットの地図には“クロマティ中学”が記されていますね。

ピート:うん、彼はモントリオール・エキスポズの選手だったから。カナダ出身のラッシュのゲディ・リーと友人だったんだ。その縁だと思うよ。

●最近も日本を訪れていますか?

マイケル:いや、長いあいだご無沙汰だよ。最後に日本に来たのは1980年代の初め、ポール・マザースキーの映画『テンペスト』(1982)のときだった。ツトム・ヤマシタが音楽を担当することになって、GOで付き合いがあった私が呼ばれたんだ。東京が発散するエネルギーも好きだし、京都も大好きなんだ。お寺や瞑想できる庭園があって、素晴らしい都市だよ。現代日本のデジタル・アートにも関心があるし、ぜひ近いうちに行かないとね。ザキール・フセイン、アイアート・モレイラと一緒に『Drums Of Compassion』(2024)を出したんだ。それに伴うショーを日本でやれたら最高だと思う。それに新しいアルバムも完成間近だし、インストゥルメンタルのシングルを2曲発表するつもりだ。あとはAIアート、それから分のデジタル・アートを服にプリントするファッション・ラインもやっている。いろいろ忙しいし、年齢のこともあるから、大規模なワールド・ツアーはもうやらないかもね。

ピート:私も自宅から半径4マイル以内の場所でしかライヴをやっていないけど、日本に戻れるんだったらすぐにパスポートを取り直すよ。

【レーベル公式サイト】

WildRoots Records

https://www.wildrootsrecords.com/

【Bandcampサイト】

https://michaelshrieve.bandcamp.com/album/novo-combo

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,300以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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