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好きなことを仕事に。ジャズを演奏するようにパンを焼く「ベイクショップ クプクプ」

清水美穂子ブレッドジャーナリスト
「クプクプ」は尊敬するジャズギタリストの布川俊樹さんの曲名から(筆者撮影)

「好きなことは仕事にしないほうがいい」といわれることがあるが、本当にそうだろうか。

2023年2月に開業したパンとお菓子の店「ベイクショップ クプクプ」(東京都目黒区八雲2丁目22—14)の田沼健一さんのパンを食べ、ギターを聴いていると、好きなことや夢中になれることは断然、仕事にしたらいいと思えてくる。

田沼さんはいつも楽しそうにギターを弾いている。ジャズの精神でいたら大変な日々も乗り越えられるのだという。ジャズの精神?「毎日、きまったルーティーンをこなしている時にもハプニングは起きます。どう乗りきるか。それはジャズの演奏と似ているのです。ふとした瞬間にパンやお菓子のアイデアが浮かぶのも、ジャズのアドリブのようなのです」。田沼さんは言う。

ギタリストの布川俊樹さんと厨房でセッション(写真提供:田沼健一)
ギタリストの布川俊樹さんと厨房でセッション(写真提供:田沼健一)

高校時代にジャズに目覚め、音大でジャズを専攻した。ローディーやボーヤと呼ばれるプロ付きのスタッフとして、ライブを支えながらギタリストを目指した。アルバイトでは飲食店で働き、その大変さと楽しさを知った。やがて将来のことを考えた。音楽で食べていけるのか。その道を目指す人なら誰もが考えることだろう。田沼さんは、音楽で生計を立てていくのは難しいと感じ、大学を中退してカナダへ、生業探しの旅に出た。

最初の滞在先の家庭で、毎朝のようにスコーンを焼いた。こんなに楽しいことはないと感じたのは、家の人たちに喜ばれ、必要とされたからだ。仕事ではギリシャ料理店に勤め、シェフと意気投合してルームシェアすることになり、毎日のように一緒にキッチンに立った。その楽しさから食の仕事に携わりたいと考えるようになり、帰国して3年、菓子店で働いた。しかし音楽への夢が再燃することもあり、再びギターが優先され、ブラッスリーでアルバイトをして生活費を稼ぐ、というような時期もあった。その頃の田沼さんは一応、料理もお菓子もできるようになっていたので、店から重宝がられた。忙しくても必要とされるのがやはり嬉しかった。資金が尽きて実家へ戻ったあとは、世田谷の洋菓子店で9年近く働いた。国産農産物を活かしたパンやお菓子を製造販売する店で、生産者とのつきあいもあった。そこで現在のパートナー、菓子職人のみづきさんとも出会った。

その店で田沼さんは国産小麦のパンのおいしさを知り、お菓子より日常的なパンで生計を立てていこうと考え始めた。その矢先、縁あって六本木に新しくオープンするベーカリーカフェのオープニングスタッフになることができた。料理や菓子の厨房で働いてきたが、パンは初めてだった。大阪の有名店での研修に参加した数ヶ月で、酵母種を起こすところからパンを学んだ。パンの生地は作るのではなく育てていくものという感覚を知った。そのとき、田沼さんのなかでパンがジャズと結びついた。

看板商品のクプクプブレッド(筆者撮影)
看板商品のクプクプブレッド(筆者撮影)

 パンをつくるのは、状態が毎回違うものとセッションをすることだ。そのときの自分の感性で、パンは変わる。それはまさにジャズだと思った。もう、菓子職人でもパン職人でもミュージシャンでも、肩書きはどうでもよかった。生涯パンと生きていきたいと田沼さんは切実に思った。パンとつながることで、モヤモヤしていた気持ちが晴れるようだった。音楽のようにパンで自分を表現すること。インプロヴィゼーション(即興)という点で、パンとジャズがつながった。

しかし、いざ店がオープンしてみると、田沼さんは自分の経験不足を思い知らされることとなった。現場で動けない、情けない自分がいた。メディアの注目も集まる新しい店でのプレッシャーに負けた田沼さんは体調を崩し、退職した。

挫折した彼を救ったのは元の職場のシェフだった。通いやすい場所にあるパン工場を紹介してもらい、一からやり直した。そこは、カレーパンやクロワッサンを卸売する工場だった。やがてコロナ禍に巻き込まれ、仕事が減り、時間が余った。その時間を使って、田沼さんは酵母を培養し、自分がつくりたいパンをつくることを思いついた。そのパンを工場の外で売り始めたら、地元の人に喜ばれ、会社にも評価された。業務のかたわら、種起こしについて研究し、仕事が終わってからは、家のオーブンでもパンを焼き始めた。

全粒粉、玄米、米麹、ヨーグルト、いちごなどのフルーツから酵母を起こす(筆者撮影)
全粒粉、玄米、米麹、ヨーグルト、いちごなどのフルーツから酵母を起こす(筆者撮影)

パンをつくることは、コツコツと改善を積み重ねていくことだった。それが心地よかった。製パンの本や職人仲間と答えあわせをしながら、酵母や粉についてさらに学んでいった。そして今年、開業した。ここへ来るまでにお世話になったすべての人に恩返しができたらいい。田沼さんはこの仕事を一生続けていこうと思っている。

基本のパンがあって、日々のアドリブが楽しい。寄り添うお菓子も日常をちょっと楽しくする(筆者撮影)
基本のパンがあって、日々のアドリブが楽しい。寄り添うお菓子も日常をちょっと楽しくする(筆者撮影)

ショウケースには、看板商品のクプクプブレッドやバゲット、湯種食パンといったシンプルなパンから、それらのアドリブのようなバリエーションが30種類近く並ぶ。シナモンとカルダモンを合わせた「シナダモンロール」や「アドリブピザパン」など、楽しい雰囲気のパンもある。ホイップバターや自家製の粒あんが100円で販売されていて、自分であんバタサンドをつくることもできる。お菓子はみづきさんの担当だ。焼き菓子やプリン、洋菓子に限らず桜餅など季節の和菓子も並ぶことがある。

目黒のレッカービッセンのソーセージを挟んだフランクドッグはランチにぴったり(筆者撮影)
目黒のレッカービッセンのソーセージを挟んだフランクドッグはランチにぴったり(筆者撮影)

田沼さんはパンをジャズに喩える。

看板商品の「クプクプブレッド」は、名曲、チャーリーパーカーの「ビリーズバウンス」。おおらかで表現が無限にある。「自分にパンの種をまいてもらった方々への敬意を持って、一緒に成長していきたいパンです」田沼さんは言う。

どんな食べ方にも合い、自由に食べてもらいたい「湯種食パン」はヨーグルトと麹の酵母で、甘みとほのかな旨味を醸す。ジャズならコルトレーンの「インプレッションズ」。

「レモンパン」は和歌山の観音山フルーツガーデンのレモンの香りを移したミルクの湯種で生地を仕込んだ、ドーナツのように口どけのよいパン。さっぱりしているのはバターの代わりに豆乳クリームを用いているから。ジャズに喩えるならソニー・ロリンズの「セント・トーマス」。「カリブ音楽の軽快なリズム、爽やかな風を感じてほしい」。

レモンパン、シナダモンロールなど、スイーツ系のパンにも注目したい(筆者撮影)
レモンパン、シナダモンロールなど、スイーツ系のパンにも注目したい(筆者撮影)

店名の「クプクプ」は、パンの発酵のイメージかと思いきや、学生時代からずっと聴いていた布川俊樹さんの曲名から。

田沼さんは演奏するようにパンを焼き、パンづくりの合間にギターを弾く。厨房に訪ねてきた布川さんのようなギタリストとセッションすることもある。好きなことや夢中になれることは共存している。それは彼を幸せにし、まわりにいる人を幸せにする。

田沼健一さん、みづきさん(筆者撮影)
田沼健一さん、みづきさん(筆者撮影)

ブレッドジャーナリスト

東京出身。2001年より総合情報サイトAll Aboutでガイドを務めることにより、パンに特化した取材執筆活動を開始。注目のベーカリーとつくり手についてWeb、TV、ラジオ、新聞、雑誌等メディアで発信、紹介する一方で、消費者動向やトレンド情報を業界に提供、ベーカリーと消費者の相互理解を深める活動をしている。取材執筆、企画監修、講師、各種コンテスト審査員、コンサルティングなども行う。主な著書『BAKERS おいしいパンの向こう側』(実業之日本社)『日々のパン手帖 パンを愉しむsomething good』(メディアファクトリー)『おいしいパン屋さんのつくりかた』(ソフトバンククリエイティブ)他

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