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明治維新をなし遂げ、一国の財政を潤した霊薬・樟脳の香りが復活の兆し!

田中淳夫森林ジャーナリスト
150年の歴史を持つ福岡の内野樟脳

 私の車の後部座席には、クスノキの幹の輪切りが積まれている。取材先でクスノキの伐採をしていたのに立ち会い、その片をもらったのだ。おかげで1カ月近く経ったのに車内はクスの香りが充満している。

 それが心地よいのだ。メントールのような鼻がスッとする感覚。フレッシュでいて、脳内にしみ通るような香りだ。それは鼻につく刺激ではない。また香りだけでなく防虫効果などもあるという。木の香りの中で、私は一番好きである。

 

 樟脳と言えば、衣類の防虫剤を思い出して、その臭いを嫌う人もいるかもしれない。アレルギーになる人もいるという。だが、おそらくそれは樟脳の香りではない。一般に出回っているのは松脂からつくる合成樟脳、およびコールタールからつくるナフタリン、あるいはパラジクロルベンゼンなどの化学物質だろう。

 私が嗅いで喜んでいるのは、クスノキに含まれる正真正銘の天然樟脳の香りだ。もし、その香りを知らないというのなら、クスノキの葉1枚でいいから、ちぎって揉んでほしい。それで立ち上る爽やかな香りだ。よく似た香りの中にはシナモンもある。

 この天然の樟脳が世界を動かし、日本では明治維新の原動力になったことをご存じだろうか。さらに言えば、一時期樟脳の生産は日本が世界シェアを独占していたことを。

 樟脳は、英語ではカンファー、オランダ語でカンフル。かつて強心剤として病人の劇的な復活効果が期待されたほか、血行促進作用や鎮痛作用、消炎作用、鎮痒作用など多くの薬効に使われた。もちろん防虫・防腐剤としても重要で、エジプトやギリシャでは神聖な霊薬として使われた。そしてヨーロッパで長く珍重され続ける。

 20世紀に入ると、合成樹脂であるセルロイドが発明され、さらに無煙火薬、そして写真や映画のフィルムの材料としても樟脳は引っ張りだこになった。

 日本でも安土桃山時代から江戸時代初期に生産が始めたられたようだが、とくに幕末には、薩摩、五島列島、そして土佐で盛んに生産され、密輸出された。それがヨーロッパを独占し、莫大な資金を生み出した。たとえば後に三菱を創設する岩崎弥太郎は、樟脳生産で莫大な利益を生み出し、土佐藩はそれで軍艦や武器を購入している。それが倒幕につながったのである。

 さらに日清戦争後に領有した台湾はクスノキが繁茂しており、大々的な樟脳生産が行われた。一時は世界の樟脳生産量の8割を日本と台湾で占めるまでになった。これを専売にすることで台湾経営の主たる財源となったうえ、日本政府も潤したのだ。

 さて、長々と樟脳の価値を説明してしまったが、そんな天然樟脳も戦後はすっかり姿を消した。合成化学物質に座を明け渡したのである。日本では福岡県みやま市の内野樟脳だけで昔ながらの製造を守っている……と聞いて訪ねてみることにした。

 大通りから1本奥に入った道沿いに樟脳工場はあった。その前には刻まれたクスノキが転がっており、ふわっと樟脳の香りが漂う。そして製造を手がける内野和代さんに案内していただく。

 製法は、チップにしたクスノキの材を釜に詰めて水蒸気で蒸留するというもの。出てくる蒸気を冷やすと樟脳油が採れ、その中で樟脳が結晶化するのだ。それを圧搾して搾り取る。残った樟脳油は加工すると再製樟脳を生産できるのだが、今はアロマオイル用などにそのまま利用されるそうだ。

クスノキを蒸留して冷やすと樟脳油となり、やがて樟脳が結晶する
クスノキを蒸留して冷やすと樟脳油となり、やがて樟脳が結晶する

 気になったのは、原料のクスノキの調達だ。クスノキなんて植林もほとんどされていないし、それが尽きたら樟脳の生産はできなくなるのではないか。

 だが、答は意外だった。

「市場で仕入れることもありますが、むしろ持ち込みが多いんです。庭木や神社仏閣、公園、街路樹などに植えられているクスノキが伐られると、処分に困るんで業者が持ってきてくれるんですよ」

 なんと、クスノキは世間では持て余されていたのだ。もともとクスノキは西日本に生える木だが、とくに九州は多い。長寿で生長も比較的よくて巨樹になる(日本一大きな樹木は鹿児島の「蒲生の大楠」である)。ただ大きくなると落ち葉が多いとか、建物の邪魔になる、そして台風などで倒れる……などで伐採が相次いでいるらしい。

 しかし直材が取りにくく、また樟脳の香りゆえに建材にしにくいこともあって捨てられることが多いらしい。かつては宝の木だったのに……。

 とりあえず原料面から天然樟脳の生産が行き詰まることは当面ないと知りホッとした。

 そして、需要も現在は、引っ張りだこなのであった。アロマ流行りであることも一つだが、着物などにナフタリンなどの化学物質の臭いが付くのを嫌う人が天然樟脳の良さに目覚めたらしい。決して安くはないが、すでに1年ほどの予約まち状態。おかげで私は、手に入れることができなかったのだが。

そしてもう一つ。内野さんが最後の樟脳生産者と思っていたら、ここ数年、新たに樟脳づくりに参入する人々が現れているそうだ。現在、佐賀・神崎、宮崎・日向、そして鹿児島の屋久島に立ち上がり、全部で4軒となっている。復活の兆しがあるのだ。

 原材料の資源はあり、需要もそれなりにある。もちろん生産は重労働だし、経営には別の苦労があるだろうが、地域の産物として見直してほしい産物である。

森林ジャーナリスト

日本唯一にして日本一の森林ジャーナリスト。自然の象徴の「森林」から人間社会を眺めたら新たな視点を得られるのではないか、という思いで活動中。森林、林業、そして山村をメインフィールドにしつつ、農業・水産業など一次産業、自然科学(主に生物系)研究の現場を扱う。自然と人間の交わるところに真の社会が見えてくる。著書に『鹿と日本人 野生との共生1000年の知恵』(築地書館)『絶望の林業』『虚構の森』(新泉社)『獣害列島』(イースト新書)など。Yahoo!ブックストアに『ゴルフ場に自然はあるか? つくられた「里山」の真実』。最新刊は明治の社会を揺り動かした林業界の巨人土倉庄三郎を描いた『山林王』(新泉社)。

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