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中学受験「なぜ質問できないのか?」「なぜカンニングするのか?」休暇の際に保護者が気をつけたいこと

矢萩邦彦アルスコンビネーター/知窓学舎塾長/多摩大学大学院客員教授
(ペイレスイメージズ/アフロ)

受験業界には、新学期・季節講習・入試直前期など波やリズムがあり、その都度様々な注意事項が語られているが、ゴールデンウィークは見過ごされがちである。今回はゴールデンウィークをはじめまとまった休暇の際に注意しておきたいことを筆者の経験を基に考えてみたい。

●点数がとれないことは「悪い」のか?

「ごめんなさい!」ゴールデンウィーク明けのある日、突然ある生徒に土下座されたことがある。謝られるような心当たりは全くなかったので、びっくりして理由を尋ねると、「成績が悪くてごめんなさい」と言う。僕自身は、基本的にテストの点数で評価することはないので、なぜ急に謝ろうと思ったのかを詳しく尋ねてみた。するとどうやら、両親は共働きでともに余裕がなく、勉強は塾と本人に任せていたのだが、ゴールデンウィークに久しぶりに両親が揃って休みになり、今まで放置していたテストの結果を見て激怒したという。それで本人は、今まで全く悪いと思っていなかった「テストの点数」が謝るべきことだったのだと解釈して、僕のところにも謝罪に来たというわけだった。

似たような話は受験業界にいるとよくあるのだが、取り立ててゴールデンウィークに勃発することが多いように感じる。この話には中学受験の影の部分が色濃く浮かび上がっているように思う。

●「分からない」ことが「悪い」ことになってしまうロジック

このエピソードで考えるべき問題は3つある。

(1)まず、保護者が受験勉強をすべて丸投げしていること。

(2)次に、丸投げしているのに塾も子どもも信頼しておらず、自分の価値観で気まぐれなタイミングで評価だけをしていること。

(3)そして何よりも最悪なのが、点数がとれないことを悪いことだと思わせてしまっていること。

まず大前提として、伴走しながら一緒に学習状況を見ることができないのであれば、塾や講師に任せる覚悟が必要である。もちろん相性の善し悪しを判断することが前提だが、1度任せたら自分の価値観や意見を強要しないで、お互いの価値観や意見を確認しながら進めないと、ダブルバインドになってしまい子どもが混乱する恐れがある。

また探究型の学習においては言わずもがなだが、たとえ従来型の学習においても、点数で善し悪しを判断することは合理的とは言えない。そもそも、点数だけで評価することで、間違えることを悪いことだと思ってしまう小学生はかなり多い。そして、悪いことなのだから隠さなくては、という意識が芽生え、間違いを誤魔化し、分からないことを言い出せなくなってしまう。そうなると、解答の丸写しや、できていないのに丸をつけてしまったりという行動を、自然にするようになってしまう。質問をすることは「自分は悪いです」と告白するのと同じなので、分からないまま取り残され、授業はどんどん進んでいってしまい、さらに「分からない」が積み重なって、どうしようもなくなってしまう。

●怒られないことが目的化してしまう弊害

そして、そこまで追い込まれた受験生は防衛本能から、いとも簡単にカンニングをするようになってしまう。怒られないことが目的化すれば、真面目に勉強することとカンニングすることの選択基準は、どちらがより低い労力で達成できるかという判断によってしまう。そしてカンニングの方が簡単だと直感的に判断する受験生が大半である。実際「分からない」が積み重なった生徒ほど、カンニングの方が楽になってしまうのだ。(ちなみにカンニングをしない受験生は、「苦労した方が自分のためになる」あるいは「カンニングする方が面倒だしリスクも大きい」と考えている傾向がある。どちらも問題を孕んでいるが、今回は言及しない。)

実際、中学受験塾において、カンニングはかなり横行している。そして、この問題を解決しにくくしている原因として、塾の対応と一定の保護者の反応がある。まずカンニングに関して「見て見ぬふり」をする塾は多い。「疑わしきは罰せず」という大義名分を掲げる講師もいるが、実態は「クレームや退塾に繋がる可能性があるから」という理由である。カンニングを指摘することで、「言いがかりだ」あるいは「塾側の管理不足だ」と激昂する保護者は少なくない。だから指摘しないでおこうというわけだ。そういうスタンスの塾の場合、保護者は結局何も知らないまま受験を迎えることになりかねない。そうならぬように、まずは保護者が自らの価値観や言動を振り返っておきたい。点数のためではなく、自分の成長のために勉強するのだ。それがやがて社会のために成っていくから、仕事や豊かな人生へと繋がっていく。

今回は、質問できなくなる理由とカンニングをしてしまう理由について考えてみた。成績だけで評価することで、「学ぶことの意味」がズレてしまう。2020年教育改革に向けて、学歴・偏差値社会や定量的な評価を見直すべきだという声も多くなってきているが、一朝一夕に変わるものではないし、変革期だからこその混乱もある。少しでも保護者や現場の教育者が、思考停止せずにしっかりと考えて生徒と向き合うことが求められる。(矢萩邦彦/知窓学舎教養の未来研究所

アルスコンビネーター/知窓学舎塾長/多摩大学大学院客員教授

1995年より教育・アート・ジャーナリズムの現場でパラレルキャリア×プレイングマネージャとしてのキャリアを積み、1つの専門分野では得にくい視点と技術の越境統合を探究するアルスコンビネーター。2万人を超える直接指導経験を活かし「受験×探究」をコンセプトにした学習塾『知窓学舎』を運営。主宰する『教養の未来研究所』では企業や学校と連携し、これからの時代を豊かに生きるための「リベラルアーツ」と「日常と非日常の再編集」をテーマに、住まい・学校職場環境・サードプレイス・旅のトータルデザインに取り組んでいる。近著『正解のない教室』(朝日新聞出版)◆ご依頼はこちらまで:yahagi@aftermode.com

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