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【石田三成】が豊臣政権で残した功績と忠義を貫き通した人生

歴ブロ歴史の探求者

豊臣政権初期は弟・秀長が秀吉のブレーンとなり支えていましたが、彼の死後に政権を安定させるため政策面で秀吉をサポートしたのが石田三成です。

九州平定や小田原征伐の兵站を円滑に遂行しその手腕を発揮しました。また、朝鮮出兵では兵站※業務だけでなく、大軍の撤退も円滑に行い帰国させています。

太閤検地では秀吉から検地奉行の命を受けて各地を巡回し、土地の測量を担当しました。

このように豊臣政権では大きな役割をはたした三成ですが、徳川家康との関ヶ原の戦いで敗れた事で、後世ではあまり良くないイメージがあります。しかし、実際には不器用ながらも豊臣秀吉に忠義を尽くした武将だったと言う声も聞こえてきます。

そこで今回は、なにかと悪く書かれがちな石田三成のイメージアップに繋がるような話を紹介しようと思います。

※兵站とは…いくさでの物資の輸送などの後方支援を担当する仕事のこと。

豊臣政権で石田三成が行った仕事

どのような戦でも『情報』は速さ、正確さによって勝敗は大きく左右されます。
石田三成は、賤ヶ岳の戦いで情報収集・分析において大きく貢献しました。この情報をもとに秀吉が作戦を練り、柴田勝家を打ち滅ぼしました。
こうして三成は賤ケ岳の戦いをキッカケに豊臣秀吉の下でその能力を発揮していくことになります。

三成は堺奉行に命じられ、従来の京都中心のネットワークを大坂中心に切り替え、南蛮貿易の中心・堺と大坂を繋ぐことに尽力しました。
豊臣政権が直轄領の少なさにかかわらず、お金に不自由しなかったのは貿易による富が大きいと考えられています。

また、太閤検地では石田三成が検地奉行として各地を回り石高の測量を行います。

この時、三成は土地の基準のものさしである「検地尺」を定めています。いまでこそ全国基準は当たり前ですが、戦国時代においては革命的な事でした。

この時、現場の検地奉行たちに【七カ条の誓い】と呼ばれる検地の方針を定めました。

  1. 謝礼をもらっても検地は公正に
  2. 主君に対して失礼なことをしない
  3. 部下が謝礼をもらわないように取り計らう
  4. 自分が担当するエリアは迅速かつ丁寧に検地
  5. 不心得者がいれば報告
  6. 農民に乱暴な対応をしたり、威張らない
  7. 村人が憎い者でも不公平な検地はしない

こうした取り決めの下で正確に検地を行い、その結果、年貢の徴収が安定し、豊臣政権の力が飛躍的に増強されました。

豊臣秀吉は天下統一事業の総仕上げとして九州平定や小田原討伐・奥州平定を行うと、石田三成は戦の武働きではなく、物資の輸送や戦後処理などの後方支援にまわり成果をあげています。

また、1588年には聚楽第に天皇を招く際の対応を一手に引き受けています。

こうして、秀吉のもとで多様な任務をこなし、今後の政権のシステム作りに貢献していくのでした。

実直に領内運営を行った石田三成

石田三成の身に余るものは2つある島左近と佐和山城】と三成を皮肉る言葉がありますが、実際には佐和山で善政を敷いており領民からも慕われてました。

領内で『十三ヶ条掟』と『九ヶ条掟』と呼ばれる掟を定めて年貢計算に関する詳細な取り決めをしています。その規定の中に「農民の皆さんが困った事があれば、直接三成に直訴してください」と定めていました。

また、主君に仕えるべき奉公人の心構えを『奉公人は主君より受け取った金は、主君のために全て使うべきだ。残すやつは盗人。使いすぎて借金する奴は愚か者だ!』と述べています。

三成が秀吉子飼いの権力者だった事から、佐和山城にたくさん貯めこんでいると思い関ヶ原の戦い後に攻めてみましたが、いざ占拠してみると何もなく殺風景でした。

攻め入った侍大将が『三成は噂に違わずすごい奴だ』と感心したそうです。

石田三成を一番評価していたのは家康だった

豊臣政権下で石田三成を一番評価していたのは、関ヶ原で戦った徳川家康でした。

家康は『三成のような家臣がほしい』と言っています。

実際に現代の経済を引っ張ている経営者達も部下にしたい戦国武将として石田三成をあげる人が多いそうです。

関ヶ原の戦いで互いに争ったことから仲が悪いと思われますが、徳川家康による上杉討伐くらいまでは嫌われ者同士、関係は悪くなかったと考えられています。どちらかというと、お互いにリスペクトしていたのでしょう。

家康がそもそも秀吉が亡くなったと聞いたのは三成からで、この時に『これからも豊臣家のために一緒に頑張ろう』と互いに確認をしていました。しかし、家康は秀吉の遺言を破り暴走を始めた事から真面目な三成は家康と徐々に対立姿勢を見せていくのです。

石田三成は仕事はできるが嫌われ者

石田三成は政権内での官僚として優秀でしたが、コミュ力が低く、融通の利かないお役人みたいな人で人望がなかったと言われています。

台風で城が大きな被害を受けた時には、自分の担当でもないのに三成は早朝に城の隅々まで回り、どれだけ損傷したか調べてすぐに手配をしました。その後、土木担当の奉行が昼ごろに登城して秀吉に怒られたと言う逸話があります。

土木奉行からすれば『役割の違うのに三成出すぎじゃね?』となり、こういうところから不信を買っていました。

嫌われ者でも親友はいた

そんな三成でも理解してくれる人もおり大谷吉継などは【三成を語れば吉継が出る】ほど深い仲だったと言われています。
家康と戦う相談をした時には『お前は人望が無いから家康とやっても負けるからやめておけ』と本音のアドバイスをしたのも、親友だからこそだったのでしょう。

西軍で最後まで奮戦したメンバーを見てみると、島左近を初め大谷吉継など武士の鑑と言われるくらい真っすぐなメンツが多いように思います。

関ヶ原の敗戦後は再戦を狙っていた

関ヶ原の戦いでは石田三成は敗れましたが自害はせず逃げて佐和山城を目指したと言います。これは、当時の武士ではありえないすごいことです。三成は、生きている限りまだ家康と戦えると信じて次の機会を伺おうとしました。

組織を運営していくには『嫌われ役』や『汚れ役』を引き受けなければいけない人がいます。それを一手に引き受けたのが、石田三成だったのでしょう。

秀吉に与えられた命令を忠実にこなすほど言いたくないことも言ったでしょうし、そこから周囲に煙たがられて誤解を招きやすいのだと考えられます。

石田三成は真面目で不器用にしか生きられなかったとわたしは感じました。豊臣秀吉を慕い秀吉のために生きようとして散り、忠義を貫き通した立派な人生だったと思います。

歴史の探求者

歴史好きが講じて歴史ブログを運営して約10年。暗記教科であまり好きでないと言う人も少なくないはずです。楽しく分かりやすく歴史を紹介していければと思います。歴史好きはもちろんあまり好きではない人も楽しめるような内容をお届けします。

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