故サムスン李健熙会長めぐる「功と過」論争から見えるもの
10月25日、韓国で最もその名を知られた経営者である、李健熙(イ・ゴニ、78)サムスン電子会長が他界した。同氏のキャリアや経営哲学を中心に語られがちなこのニュースを、別の角度から読み解いてみる。
●日経「半導体・テレビ・スマホで日本に全勝」
28日午前、サムスン電子を世界5位の企業へと導いた故李健熙会長の告別式が行われた。李会長を乗せた霊柩車は、ゆかりのある工場や社屋を一回りした後、京畿道・水原(スウォン)市内にある李一族の墓地へと向かった。
日本でも韓国一の企業のオーナーの死は大きく受け止められている。特に、日本経済新聞は李会長を「隠遁のカリスマ」、「中興の祖」と表現、「半導体・テレビ・スマホで日本に全勝」と業績を挙げると共に、その死を悼む日本の企業経営者の声を伝えている。
そして世間の注目は、後継者となる長男・李在鎔(イ・ジェヨン)副会長の動向に集まっている。約18兆ウォン(約1兆6700億円)とされる故李健熙会長が遺した株式の相続税10兆ウォン(約9200億円)をどうするのか、今後はどうリーダーシップを取るのか、といった話題だ。
だが、こんな「大きな話題」の傍らで、韓国内では見逃してはならない議論が起きている。それは、李健熙氏が遺したサムスンの「負の側面」をどう受け止め、改善していくのかというものだ。
●与党代表→大学教授→労働運動家と続く議論
・与党代表の批判
発端は、25日午前の李会長の死去直後に、与党・共に民主党の李洛淵(イ・ナギョン)代表が発表した追悼文だった。短いので全文を引用してみる。
李健熙サムスングループ会長の死去に深い哀悼を表します。
新経営、創造経営、人材経営…
故人は峠を迎えるたびに革新のリーダーシップで変化を導かれました。
その結果としてサムスンは家電、半導体、携帯電話などの世界的企業へと跳躍しました。
「考えながら世の中を見よう」といった故人の数多くの語録は、活気ある創意的な企業文化を創りました。韓国社会にも省察を投げかけてくれました。
しかし故人は財閥中心の経済構造を強め、労働組合を認めないといった否定的な影響をもたらしたという点を否認することはできません。
不透明な支配構造、租税逋脱(脱税)、政経癒着のような影も遺しました。
故人の核心的なリーダーシップと不屈のチャレンジ精神はどの時代、どの分野でも見習ってしかるべきです。
サムスンは過去の間違った慣習を絶ち、新たに生まれ変わることを望みます。
故人の光と陰を静かに想いながら、心より冥福を祈ります。
李洛淵代表のこの追悼文は、「よくぞ指摘した」というものから、「亡くなってすぐに言うことか」というものまで、ネット上で賛否を呼んだ。
特に今年7月、部下の女性職員へのセクシャルハラスメント疑惑を受け、故朴元淳(パク・ウォンスン)ソウル市長が自死を選んだ事件が言及された。「当時、朴市長に同じことが言えたのか」、「結局はダブルスタンダードではないのか」という批判が多く寄せられた。
関連記事:朴元淳ソウル市長の死で露わになった、韓国社会の巨大な「亀裂」
https://news.yahoo.co.jp/byline/seodaegyo/20200714-00188116/
・名門大教授の擁護
また、あるコラムが批判世論を後押しした。ネット論客としても著名なイ・ハンサン高麗大経営学部教授は26日、日刊紙『朝鮮日報』に「李健煕会長による真の克日」というコラムを寄稿した。
イ教授はその中で、1990年代後半の米国留学当時には家電量販店の片隅にあったサムスン製品が、2011年の訪米時は最も目立つ所に置いてあったという自身の経験を述べた。その上で「皆が克日を叫ぶが、解放後、私たちが口先でなく実力で日本に何を仕返しした記憶の底辺にはサムスンがあった」と持ち上げた。
克日とは、文字通り日本に打ち克つことで、場合によっては日本に反対することを指す「反日」という言葉よりも、上位の概念として使われることがある。日頃、文在寅政権に対し民族意識を煽ると批判的な立場を取ってきたイ教授にとって、遠回しに政権、そして与党を皮肉った形だ。
イ教授はさらに、直接的な表現も用いて李洛淵代表を批判した。「サムスンの役員と遺家族が傷心の中で訃報を伝えた日、一部の与党の政治家の追悼辞には苦いものがあった。過去の問題を現在の基準で批判し、間違った慣習を絶ち新たに生まれ変われと訓戒するのは公正ではない」としたのだ。
続けて、「サムスンが国家経済と国民の自尊心、韓国の認知度を過去30年間向上させる間に、政治はどんな変化を見せたのか?」と痛烈に指摘した。これは、故・李健熙会長による1995年の「正直に言うとわが国は、行政力は3流、政治力は4流、企業競争力は2流と見るべき」という発言を彷彿とさせるものだ。
そして「今日一日だけは『配偶者以外にはすべてを変えよう』、『世界一流の製品で事業報国しよう』という故人の善良な意志だけ記憶したい」とした。
一方でイ教授は、金融委員会の監理委員としてサムスンの経営や合併における問題を指摘してきたと自身を弁護した。そして、「サムスンが国民に愛される企業して残るためには、環境、労働、社会的責任、企業の支配構造すべての部分を世界的基準で改革すべき」と指摘しながら「(サムスンが)国家経済の大きな支えとしてしっかり存在することを願う」とまとめた。
・労働運動家の一針
こんな、いかにも経営学者然としたイ教授のコラムに対し、「弔問期間に『過ち』について話すことを控えるべきと、おかしな寄稿をした」と正面から批判する声が上がった。
高麗大経営学部出身で労働運動家、市民運動家として活動する傍ら、ネットで鋭い社会批評を行うホン・ミョンギョ氏によるものだ。
ホン氏は26日午前、自身のFacebookページに掲載した論評の中で「彼(イ教授)がサムスン製品を見て自負心を覚えたことと、李健熙一家が韓国社会で平凡な労働者たちに対ししでかした事には何ら関係がない」と指摘した。
ホン氏が論評の中で言及したサムスンの「陰」には、人の痛みがある。「半導体工場で10数年の間に120人を超える労働者が亡くなったことは韓国で知らない人がいない。サムスンはこれをあらゆる手を使ってもみ消そうとした」と例を挙げた。
半導体労働者の健康と人権を守る市民団体『パノルリム』によると、2007年の同団体発足以降2020年7月まで寄せられたサムスンの電子系列社で白血病や脳腫瘍、乳がんなどの職業性疾患を発症したと通報した労働者は596人(うちサムスン電子502人)、死亡事例は180人(同141人)にのぼる。
この内、政府の勤労福祉工団と裁判所が労災と認めたケースは71名(20年10月現在)で、うち27名は死亡している。労災認定を受けるまで、長い時間がかかっている。
ホン氏はこの点について、「李健熙一家の5人が持つ財産は30兆ウォンに達する。(イ教授は)功と過について話すべきというが、李氏一家があんなにも多くの富を手にする間、平凡な人には何が起きたのかひと言も話さない」と書いた。問題を矮小化しているという指摘だろう。
そしてサムスンが「ただ、人として働きたいがために労働組合を作ろうとした無数の試みをあらゆる超法規的な企業暴力で踏みにじった」とし、「脅迫と拉致、解雇、監禁、お金を使った懐柔が休みなく行われ、多くの人々が去り、追い出され、死に、不屈の力で生き残った者も生活が破壊された」と訴えた。
メディアに対する批判もあった。「言論にはこんな裏面の真実よりも、サムスンがばらまくプレスリリースがはるかに多く書かれる」としながら、サムスンの労働運動を批判していたある大手通信社の記者が数年後にサムスンの広報室に入社した事例を挙げた。
ホン氏は最後に、イ教授に対し「現政府(文在寅政権)に批判的でありさえすれば、新自由主義であろうが、無労組であろうが関係ないという人物が、搾取を先導する人よりももっと悪い」と直言し、「思考が失われ陣営だけが残った」と韓国社会を評した。
●後継問題よりも大切なもの
見てきたように、サムスンの功と過をめぐって激しい応酬があったが、筆者もまた「過を指摘すべき」と考える一人だ。
ホン氏が論評の中で「サムスンがやれば他の全てが真似をする」と指摘しているように、今なお年間2000人以上が労働災害で亡くなる(19年2020名、18年2142名)韓国の劣悪な労働風土の改革は、喫緊の課題として存在している。重大災害を起こした企業への罰則を強める、今国会の目玉法案の一つ「重大災害企業処罰法」の行き先も不透明なままだ。
今回の議論からは、李健熙会長もある無名労働者も、その命の重みは変わらないはずだという認識を導き出すこともできるだろう。李健熙会長の死は、世界一の半導体企業というサクセスストーリーの陰に隠れた犠牲に光を当てると同時に、貧富の差が広がり階級が固定化したとされる「生きづらい」韓国社会の姿をも浮かび上がらせている。
経済成長が覆い隠すものを直視できるか。それは韓国社会にとって、息子の李在鎔氏が莫大な相続税をどう払うのかといった後継問題よりも、はるかに重い問いであるはずだ。