[コラム] 朝鮮戦争停戦から71年…映画『脱走』があぶり出す南北の若者の‘今’
数日前に韓国で映画『脱走』を観た。特にチェックしていた作品ではなく、前日に読んだ記事がきっかけだった。封切りから20日間で観客動員200万人を達成した北朝鮮兵士の脱走劇だという。折しも今日7月27日に朝鮮戦争(※)の停戦協定締結記念日を迎えるとあって、ラジオに92歳の‘参戦勇士’が出演するなど、韓国では北朝鮮との関係、いわゆる南北関係への関心が高まる時期だ。5月末に始まった朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)からのゴミ風船飛来も日常化している。韓国映画としては大健闘の興行成績には時期的な追い風もあるのかなと考え、それ以上しらべず軽い気持ちで映画館に足を運んだ。
(※)朝鮮戦争とは1950年6月25日に朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)の南侵により始まった戦争だ。韓国側に米国をはじめとする「国連軍」が、北朝鮮側に中国とソ連が加勢し、東西冷戦期における最大の戦争となった。3年の間に軍人、民間人を合わせ当時の朝鮮半島の人口の1割、300万人が死亡したとされる。53年7月に板門店で停戦協定が結ばれたものの、根本的な解決に至らないまま71年が経ち、南北軍事境界線は今なお世界で最も明確な陣営対立の境界線であり続けている。
平日午後2時とあってか観客は私を含め4人。やや拍子抜けだったが、ソウル郊外の小都市なので仕方ない。唐突な告白をすると、南北関係を取材し続けている私は、南北分断や対立(時に協力)を題材にした作品になるべく触れるようにしているものの、基本的にあまり好きではない。南北対立の厳しい現実が物語の舞台となることでフィクションに一変し、練りに練られた特殊な出来事が安易なカタルシスとして消費されることを何よりも嫌うからだ。そのため、かの有名な‘不時着’も第一話を見てやめた。だがこんな面倒な私にとっても、『脱走』は良作に思えた。
ストーリーは南北分断の最前線、非武装地帯を中心に展開する。南北の事実上の国境である軍事境界線から南北2キロの地域だ。南側のラジオを盗み聞く北朝鮮兵士イム・キュナムが、探検家という夢を実現するため世界最大の地雷原である同地を越え、南側へと‘脱北’するいきさつを描く。これを追うのが泣く子も黙る情報機関・国家安全保衛省の若き幹部で、キュナムを幼い頃から知る兄貴分のリ・ヒョンサンだ。知力体力の全てを尽くして脱走を図るキュナムと、何枚も上手のヒョンサンとの間の緊迫感あふれる追撃戦が続く。結末はここに書かないが、納得いくものであった。
好評価の理由は、従来の南北もの映画には無かった要素がたくさんあったからだ。例えば、北朝鮮社会の階級差や幹部の不正腐敗、男性間の同性愛が置かれた立場が描かれ、はじめて反乱軍(流浪の民)が登場したり、その一団が女性により組織されていた点などがある。さらに携帯電話や電子タバコといった小品が北朝鮮社会の一部として登場したのも印象的だった。これらは副次的な要素として扱われ、中には唐突で消化不良な部分も存在したものの、監督が意欲的に入れたことが伝わってきた。韓国映画が描くワンパターンな北朝鮮観に、何か新しい風を吹き込みたかったのかもしれない。
本作のキーワードは「若者の挑戦」だろう。劇中の「死ぬにしても自分で死ぬし、生きるにしても自分で生きる」、「めいっぱい失敗しにいく」というキュナムの台詞からは、個人の夢の実現を妨げる環境としての北朝鮮社会が浮かび上がる。北朝鮮を逃れてこそ人間の可能性を咲かせることができるという現実を、持たざる若者の視点から描こうとした。北朝鮮が登場する映画は対立する同民族の悲劇といった脈絡で語られる場合が多いが、それとは一線を画すものだ。
昨年11月に小さな船で故郷を離れ、海路を通じ韓国に入国した20代女性も最近取材した際に似たようなことを言っていた。若者たちの多くは、当局に隠れて接した韓国文化に深く憧れを抱き、このままでは死ねないと思っているという。これを知る金正恩政権はここ4年の間、韓国が「三大悪法」と呼ぶ法律を続けざまに制定し、韓国文化の流入と拡散、そしてその享受までの全てを北朝鮮国内で厳しく取り締まっている。がんじがらめの北朝鮮と対照的な、自己実現を可能にする舞台として韓国を設定したことは間違っていない。
一方でこの斬新な、そして今の時代にあった試みは韓国社会の思わぬ部分を浮き彫りにした。
本コラムを書こうと、YouTubeを開き映画の主題歌『ヤンファテギョ(楊花大橋)』を聞いてみた。10年前に歌手Zion.Tが発表したもので、ソウルの漢江に実際にかかる橋を背景に、家族と自身の安寧を願う優しい歌詞とメロディーで人気の曲だ。民族の和合や統一を高らかに語るのではなく、一個人の、一人の若者の幸せを描く映画によくマッチしていた。
パソコンの画面を何とはなしに見ていると「『脱走』を見てここにたどり着きました」というコメントが目についた。私のように映画を咀嚼するため聞きにきたのだろう。興味を持ったためコメントを読んでみた。「『脱走』を見てきました。私たちみんな、失敗を恐れるのではなく、やりたいことをやって生きよう」、「『脱走』を見てきました。皆さん、幸せになりましょう。健康で〜」、「『脱走』を見てきました。大韓民国に生まれたことが幸せです」、「映画『脱走』を見てきた。感動。大韓民国に生まれたこと自体がとんでもない祝福。幸せだ」。
いったい何が書かれているのか。思わず目を疑った。そこには全体主義国家・北朝鮮に生きる若者への共感が全くないばかりか、楊花大橋からわずか数十キロの地点に北朝鮮があり、そこにキュナムと同じような若者が住んでいるという“現実としての認識”が全く存在しないのだ。映画は単なる寓話として受け止められていた。これこそが私が危惧してやまない、素材として北朝鮮や南北分断が消費される典型的なパターンだった。
映画の宣伝バナーにもこんな“ズレ”は表れていた。「目標のためにブルドーザーのように走る映画」、「失敗しても挑戦する勇気を得た」といった形だ。1980年生まれのイ・ジョンピル監督はある韓国紙とのインタビューの中で、主人公キュナムの果てぬ疾走に「既存の体制から抜け出したい熱望」を重ね、「輝ける夢に向かって走るイメージが重要だった。それに合わせ北朝鮮の姿も設定した」と語っている。あくまで舞台装置としての北朝鮮であると読み取れる発言だ。
確かに韓国の若者の現実は、主人公のキュナムに重なる。世界最低を更新し続け、ついに0.6台に突入した出生率は、無限に続く競争と効率性を求める社会に若者が出した答えであるとの指摘は後を絶たない。韓国の若者は絶望の中、架空の北朝鮮の若者の挑戦に自らの姿を重ね、生きる勇気を得ているのだ。映画館大手CGVによると『脱走』の観客の半分は20代と30代だという。ここでふと、今年5月に発表された韓国の国策シンクタンク『統一研究院』の最新の統一意識調査を思い出した。1991年以降に生まれたミレニアル世代は全世代の中で唯一、「統一は必要ない」という回答が「統一が必要」を上回る。それどころではないのだ。
このように映画『脱走』は、南北朝鮮の若者が置かれた現実を二重三重にあぶり出した。韓国の若者世代において、南北分断のリアリティは急速に色あせつつある一方で、南北の若者の間に「自己実現」をキーワードに新たな共感が生まれる可能性を感じさせた。こう書いている私からして、あまりにももどかしく形而上学的な解釈であると辟易するが、これもまた、代案無きまま分断80年を迎える韓国の現住所なのだと認めざるを得ない。こんな苦みの残る映画体験を停戦71年となる今日、書き残しておくこととする。(了)