[コラム] ‘三たび小池百合子’で失われる朝鮮人虐殺の記憶
昨日行われた東京都知事選で、現職の小池百合子氏が三選を果たした。日本メディアの記事を見るに順当な結果のようだが、選挙を隣国から見守っていた私には、驚きと失望の波が同時に押し寄せてきた。
驚きはぽっと出で取り立てて特徴のないように見える石丸伸二氏が二位になったことから、失望は「また小池さんか」という一韓国人、一朝鮮民族としての想いから来ている。「石丸伸二現象」については遠からず意味のある分析がなされることを期待しつつ、ここでは失望について触れてみたい。
群馬県多野郡新町(現高崎市新町)に在日コリアン三世として生まれ育った私も、21歳の時に留学した韓国に住み着き、今では韓国生活の方が長くなった。20歳の時に一年だけ中野区都立家政に住んだ東京都民であったことと、在日コリアン二世の母が上野出身であることを除いては東京と関わりがない。
このためか、都知事選を見る目も単純だった。私の関心は過去8年の都知事在任中、初年度を除き関東大震災における朝鮮人虐殺を追悼する式典に追悼文を送らなかった小池知事の行動が、どう改められるのかという一点に注がれていた。知事が替わるか、行動が変わるか、選挙を通じどちらかが実現してほしかった。9年前に韓国に永住帰国したため当然だが、もし在日コリアン都民のままでも選挙権はなかっただろう。自然と、追悼文を送ると明言する候補を応援するようになった。
東京の首長の判断は小さなものではない。韓国で5日、与党・国民の力が2日に出した論評に含まれていた「韓米日同盟」という表現を、「韓米日安保協力」に修正する出来事があった。朝鮮民主主義人民共和国からの‘ゴミ風船’への対応を求める論評の中にあったもので、野党から「頭のネジが外れている」と厳しい批判を受けたことが原因だった。周知のように韓米と日米は条約によりそれぞれ同盟関係にあるが、日韓はそうではない。日米韓を一緒くたに扱おうとする与党の安易な認識に対し、民族ナショナリズムがはたらいた格好だ。
いかなる理由があっても、自衛隊の朝鮮半島上陸を許してはならないという日本に対する警戒心は、韓国市民の間に未だ根強い。追悼文を送らない小池知事の行動は韓国でも広く知られており、いわば日本への不信の一部を、小池知事が担っている形だ。
今年2月、群馬県高崎市の群馬の森にある朝鮮人追悼碑が撤去されたニュースも韓国で大きく報じられたばかりだ。年間700万人の訪日観光客が示すように、韓国市民は決して日本を嫌っている訳ではない。だが大日本帝国による横暴な支配の記憶の上に、今なおこれを反省しないような為政者の傍若無人な態度が拭いがたい疑念となって、社会の通底に流れている。
小池氏の顔に、13年にわたって同じ東京都知事を務めた故石原慎太郎氏の顔がオーバーラップする。違いはある。差別用語の「三国人」を使い朝鮮人への嫌悪を煽った石原氏ですら、式典に追悼文を送っていた。その背景に戦中派世代としての意識や、今はもう朧気な‘日本リベラル’の監視の目があったのかは分からない。
だが、虐殺の歴史すら曖昧にする小池氏の心中はまるで、荒野のように茫洋として掴みようがない。追悼文の送付は選挙においても小さな問題に過ぎなかった。震災101年を迎える時期に起きたマイルドな差別主義者とも言うべき同氏の三選は、虐殺の墓標が忘却の一里塚になるのではという悪いイメージを呼び起こす。
良識ある東京の有権者の中には「何をまた古い話を。そう決めつけないでもらいたい。我々には生活がある。追悼文の有無だけで都知事を選ぶのではない」と顔を赤らめて怒る人がいるかもしれない。そうだろう。それは理解できる。ならば小池百合子氏に向かって声を上げてはどうか。「今年こそ追悼文を送れ」、と。