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どうやらAIやロボットが「仕事を奪う」のは、地方のほうが早い

遠藤司皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー
(ペイレスイメージズ/アフロ)

 10月26日、MITテクノロジーレビューに「AIやロボットが「仕事を奪う」のは小都市から、MITメディアラボ」と題する記事が掲載された。

 大都市には、判断や解釈、分析を伴うような、高度な知識を必要とする仕事が集中している。それに対し、都市の規模が小さくなると、レジ係や飲食店の給仕などといったルーティン・ワークが多くなる。後者は機械でもできる仕事であるため、人間の行う仕事ではなくなっていく、という趣旨である。

 なるほど、筆者は大都市のほうが大きな企業が多く、それらがひしめき合う場所であるからこそ、機械化のスピードは上がっていくのだと決めつけていた。よって地方は、もう少し大丈夫だろう、と。しかし考えてみれば、19世紀の産業化の頃とは違い、いまや地方もまた、かつての農村社会ではなく、都市的な社会である。ゆえに大都市における変化は、地方都市における変化に直結している。結局のところ、その場所に存する仕事の種類によって、機械化のスピードは左右されることになるのである。そして大都市には、高度な知識を持つ人たちが集まる傾向があり、地方の小規模な都市はそうではない。そのため、東京などの大都市よりも、むしろ地方のほうが、人間の行っている仕事は機械に置き換わりやすい、ということになる。

 MITメディアラボのイヤッド・ラーワン准教授も指摘しているように、機械学習、アルゴリズム、チャットボット、音声認識などによって、今後はホワイトカラーの行う仕事まで機械化していく。このことから、二つのことが言えそうである。すなわち一つには、地方は企業の誘致によって職を作ってきたところがあるが、どうやら誘致の際は、高度な知的技能を要する仕事を行う企業ないし組織を誘致しなければならない。そして二つめに、より重要なことだが、地方は「人間の仕事」の育成を始めなければならない。

 前者については、およそ想像がつくだろう。しかし後者は、どういった仕事だろうか。これから求められる「人間の仕事」について、述べていくことにしたい。

人間の行う仕事について

 実は筆者は、AIやロボットが人間の「仕事を奪う」という表現には、問題があると考えている。その意味するところは、現在の仕事が機械によって置き換わるということであるが、その後には別の新しい仕事が生み出されるからである。人間の仕事、やることは、なくならない。より価値のある仕事を見出し、それに従事すればよいだけである。

 19世紀の産業化によって、かつての職人的な熟練技能者の仕事は、資本家によって雇用される賃金労働者の仕事に置き換わっていった。しかし、ここで機械のうちで、あるいは機械とともに行う仕事に熟達した者と、そうでない者が現れてきた。いうなれば、新しい時代において求められる技能が変わったのであり、それを身に着けた者とそうでない者との間に階層が生まれたのである。必要とされる新しい技能を身に着けようと努力した者は、より裕福になることができた。

 新しい「産業革命」は、かつてのそれが必要とされる肉体的技能の変化であったのと同様に、必要とされる知的技能の変化によって特徴づけられる。基本的に、命令を出す頭脳があって、動作する肉体があれば、労働をすることは可能だ。肉体の領域に始まった変化が、頭脳の領域にまで侵食していったのが、これまでの変化の流れである。ようするに、かつての産業革命と同じように、新しい時代に必要とされる技能、能力を身に着けようと努力した者が、成功を収めるのである。

 必要とされるのは、創造的に物事に対処する力、イノベーションの力である。以前述べたように、この創造性は、しなやかな状況対応能力によって支えられる。変化をみる眼と、俊敏に動く特性がなければ、創造的にふるまうことはできない。単に手を動かすのではなく、また頭を働かせるのではなく、創造的に頭を働かせることで、我々は次の時代に生きることができる。

 すでに地方は、過疎化や高齢化によって人手不足の状態である。よって、人間の代わりに機械が仕事を行ってくれるというのは、むしろ地方にとっては幸運であろう。しかし、一部の人は困ることになる。あまり頭を使って仕事をすることに向いていない人、創造的に頭を働かせることができない人である。困る人がいるというのは、よろしくない。ここでは創造性、あるいはイノベーションというものが、どういう考え方や態度によって生まれるのかについて述べておくことにしたい。

よき人間の仕事を追求する

 ある人が創造的でないのは、創造的である必要がないからである。つまり、何らかの価値を創造しようと、心から思っていないからである。ゆえに創造的な力は、これからも育まれることはない。

 イノベーションとは、世の中が本当に求めるものを見出し、新たな価値で現状を変えることである。そのときに用いられるのが、新しい技術や新しい方法であるというだけで、それら自体がイノベーションではない。よって、AIやロボットがイノベーションだというのは間違いであり、それらはイノベーションのための手段にすぎないのである。たとえ新しい技術や方法が使われていなくても、考え方次第でイノベーションは起こりうる。

 ところで、「世の中が本当に求めるもの」と書いたが、世の中とは、人間社会のことである。つまり、何らかの人間集団が求めるものを見出すことが、イノベーションのためには必要である。誰かのうちで、いまだ満たされていない満足を満たすことが、イノベーションなのである。ゆえに困っている人や、喜びを感じていない人に対して、どうにかして満足を与えようと「思うこと」が、イノベーションのトリガーとなる。

 目の前に困っている人、満足していない人がいる。既存のやり方では、その人を満足させることはできないだろう。そうであるから、何としてでもその人を満足させるために、新しいやり方を考案しよう。そんなよい人間の生き方、なんだかわくわくするじゃないか。このような態度によって、イノベーションは生じる。イノベーションとは技術云々の前に、それをやってやろうという心の働きがあるからこそ、生まれるものなのである。

 近代の科学的態度は、心と身体を切り離し、人間を物質的なものとして扱おうとするものであった。人間を反応的なものとみなし、こうすればこうなるという、刺激に対してリアクションするものとして捉えてきた。しかし人間は、ある出来事があったときに、それに向けて心を働かせることで、次の行動を選択することのできる生き物である。自分の意思あるいは意志によって、機械への従属から離れて、未来を切り開くことのできる生き物である。

 「人間の仕事」を育成するということは、心をもった人間の仕事、よき人間の仕事を育成するということである。ここにおいて、頭のよし悪しはあまり関係ない。試行錯誤の結果、満足していない人を満足させようという、よい心構えが、イノベーションを生み出すのである。これからの時代、生き残るのは、誰かのために貢献することのできる「いいひと」だ。

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皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー

1981年、山梨県生まれ。MITテクノロジーレビューのアンバサダー歴任。富士ゼロックス、ガートナー、皇學館大学准教授、経営コンサル会社の執行役員を経て、現在。複数の団体の理事や役員等を務めつつ、実践的な経営手法の開発に勤しむ。また、複数回に渡り政府機関等に政策提言を実施。主な専門は事業創造、経営思想。著書に『正統のドラッカー イノベーションと保守主義』『正統のドラッカー 古来の自由とマネジメント』『創造力はこうやって鍛える』『ビビリ改善ハンドブック』『「日本的経営」の誤解』など。同志社大学大学院法学研究科博士前期課程修了。

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