タリバンはなぜ首都を奪還できたのか。なぜ多くのアフガニスタン人の支持を受けたのか。
タリバンは、アフガニスタンの首都カブールに無血入場、約20年ぶりに政権を奪還した。
多くの人々が「タリバンはイスラム過激主義者で、テロリスト」と思っているようだ。これから恐怖政治が敷かれるようなイメージを抱いている人もいる。
確かに、タリバンは以前は過激派だった。1996年から2001年の約6年間だけ政権の座についていたが、彼らの政策は、過激なイスラム原理主義に基づくものだった。
バーミヤンの仏像を破壊したのも、このころだ。特に女性には極度に抑圧的で、ブルカ(目以外は全身をベールで覆う服装)の着用を義務付け、女性の就労を認めないほどだった。
この政権を承認したのは、わずかにパキスタン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦のたった3カ国だった(トルクメニスタンは確認中)。
しかし、それは昔のイメージであって、今は違うと語る専門家は多い。
確かに、約20年かけて政権を奪還できたのには、それだけの理由があったはずだ。多くのアフガニスタン人の支持がなければ、政権奪取はできなかったはずだ。
その理由は、撤退側の報道だけ見て考えたら、見えてこないかもしれない。
この20年間、タリバンにどういう変化があったのだろうか。
長い記事なので目次をつくりました。
◎アフガニスタンの土地柄
◎タリバンはなぜ国内で支持を集めていったのか〜5つの視点
◎アフガン・ナショナリズムの不安な要素
◎保守的なモスクが人々の中心
◎超過激派「イスラム国」支持者との対立
◎国家づくりの難しさ-----現代的な国づくりが厳しい土地柄
アフガニスタンの土地柄
まずアフガニスタンはどういう土地柄なのか、見てみたい。
海がない国で、面積は約65万3000平方キロ。日本の面積は、陸地だけなら約37万8000平方キロだ。アフガニスタンのほうが1.7倍大きい。
そんな広い領土に、人口は約3800万人しかいない。日本は1億3000万人弱である。日本のほうが、3.4倍人口が多い。
このように、アフガニスタンは人口密度が低い国である。世界レベルでみても、かなり低い方の国になる。
アフガニスタンは81%が田舎である。人口7万人以上の町はわずか十数カ所しかない。
厳しく険しい山岳地帯と苛酷な砂漠地帯が広がっており、耕地面積はわずか12%である。
伝統的には(半)遊牧民が生きる土地である。
経済の実体は、おおむね農業3割、工業2割、サービス業5割(World Bank, World Databank)ということだ(ただし、水を天水に依存しているため、農業の豊作・凶作により変動はある)。
気候はどうだろう。
4~11月の乾季と12~3月の雨季に分かれ、雨季と乾季の間に短い春と秋がある。夏は30度を超えることもあるが、大変乾燥している。冬は氷点下20度になることも稀ではないという。
ユネスコの定義によれば、アフガニスタンは「中央アジア」に含まれている。
簡単に歴史を振り返ると、18世紀の半ば、イランの支配が終わり、部族集会によってアフガン王国が成立した。
帝国主義の時代は、南下しようとするロシアと、インドを支配する英国とのはざまで、争われている場所だった。しばらく英国の支配下に入ったが、1919年、再び王国として独立を勝ち取った。第2次世界大戦では、中立政策をとった。
大戦後の冷戦の時代には、「◎◎タン(〜の国という意味)」という国名がつく国の中で、アフガニスタンと南のパキスタンは、ソビエト連邦に属していない独立国だった。
全体として産業には恵まれていないが、シルクロードとインド方面とを結ぶルートにあったので、昔から「文明の十字路」と言われてきた。そして「戦乱の十字路」でもあった。
タリバンはなぜ国内で支持を集めていったのか
タリバンは、一気に全土を掌握したわけではない。
2017年には既に、国土の7割にタリバンが存在していた。
当時、首都カブールの合法的な親米政府は、実際には国の3割しか支配していなかった。実際、アフガニスタンの田舎地域は、タリバンに奪われてしまっていたのだ。
なぜタリバンは、国内で少しずつ支持を集めて行ったのだろうか。
理由の第一は、タリバンが過激派のやり方を脇において、アフガニスタンに伝統的なイスラム主義のやり方に変えたからである。
タリバンは、1996年から2001年までの約6年間、過激なイスラム主義者として、同国を統治していた。
2001年9月11日、アメリカの同時多発テロが起きた。首謀者は、テロ組織アルカイーダのオサマ・ビン=ラディン。当時のタリバンと同じくイスラム過激主義で、ジハード(聖戦)主義だ。
タリバンが彼をかくまっており、アメリカへの引き渡しを拒否。タリバンは、アメリカと有志連合に報復され、政権を追われて、野に下った。
再び首都カブールを奪還するまでの約20年間、タリバンのイデオロギーは、過去の最も壊滅的な影響を与える原理主義の要素を脇に置いて、少しずつより伝統的なイスラム主義のアプローチになっていった。
タリバンの指導や推進してきたイデオロギーは、主にアフガニスタン領内の地方、村、多数派のパシュトゥーン人の環境から引き出されたものである。それゆえ、アフガニスタンには異質な思想ではなく、人々に根ざした思想であり、社会に広く見られる考え方を踏襲しているのだ。
政権を追われたタリバンは、テクノロジーを拒絶するのではなく、プロパガンダのためにフル活用するようになる。そして、国家教育、特に女子教育に組織的に反対するよりも、それをコントロールすることを好むようになった。
それは、タリバンの目的が、自分たちが反乱兵以上の存在であり、統治する準備ができていて、それを効果的に行うことができることを住民に示すためだったからだ。
例えば、教育を挙げてみたい。
彼らは首都カブールの親米政権の資金援助を受けた学校を攻撃するのではなく、保護を確かなものにするために、学校を共同利用する。特に、親米政府派の治安部隊が、タリバンに対抗できるほど強くない地方では、そうしてきた。
さらに、政府から学校に出る資金に対して不正がはびこる中で、教師の選定に責任をもち、教師が授業はしないが給料をもらって満足している事態がないように監督することすらあったという。
もちろん、女子教育の問題に見られるように、タリバンの世界観がすべてのテーマにおいて完全に変わったわけではない。
カブール奪還後の8月17日に行われた記者会見で、タリバンの広報担当のザビフラ・ムジャヒド幹部は「女性の人権を尊重し、差別はしない」と語り、就業や通学を認める方針を示した。その上で、「イスラム法が認める範囲」としている。
イスラム法といっても、さまざまな主義や思想があり、結局は現地社会が鍵を握るだろう。
例えば同じイスラム教の国でも、チュニジアは国会議員に3割も女性がいる(ちなみに日本よりも多い。衆議院は約1割しかいない)。チュニジアの国会では、ブルカ(目以外の全身を隠す服)ではなく、頭にスカーフを着けているだけの女性議員が珍しくもない。
アフガニスタンは、若い女性の3分の1が、18歳未満で結婚している大変保守的な国であることを忘れてはならない。もちろん、親が結婚を決めているのだ。
結婚したら、女性の居場所は家庭となり、役割は子を産み育て、家事をすることになるのである。
この問題に関して、タリバンが2001年以降もほとんど進化していないとすれば、残念ながら、それは社会の反映であるかもしれない。
それから、過激派集団として6年間タリバンは政権を握っていたが、その時期でも外から見るのとは異なる側面が、一部タリバンにはあったようだ。
日本人で、アフガニスタンで支援活動を長年続けてきた中村哲医師という方がいた。2019年12月、現地で銃撃を受けて亡くなった。
中村医師は、以前のタリバン政権の時代、2001年9月11日アメリカで同時多発テロが起こり、これから本格的なアメリカと有志連合の攻撃が始まる同年10月、日経ビジネスのインタビューに答えている。
「タリバンは訳が分からない狂信的集団のように言われますが、我々がアフガン国内に入ってみると全然違う」、「田舎を基盤とする政権で、いろいろな布告も今まであった慣習を明文化したという感じ。少なくとも農民・貧民層にはほとんど違和感はないようです」と述べた。
さらに以下のように語っていた。
タリバンが当時過激派で、多くのアフガニスタン人が難民として祖国を捨てざるをえない状況をつくったのは事実である。ただ、当時から、過激主義だけではない側面ももっていたことがうかがえる。
次に重要なのは、アフガニスタンのナショナリズムである。
外国勢力が首都や国を支配していることを拒絶し、国家の独立を唱えるーーこれがタリバンの言葉を支配していた。
アフガニスタンは、半遊牧民が多く住み、乾燥地で細々と農業が営まれている土地柄だ。
この国では、従来は「国民」という意識は比較的希薄だったというが、外国人がいうほど希薄ではないという指摘もある。
それでも、外敵がいると、人々はまとまるものである。人類の歴史上では、国内の爆発しそうな不満をそらすために、わざわざを外敵つくって世論を煽り、戦争をするケースさえよくあった。
実際、タリバンが掲げるイスラム主義の言説は、主に宗教的な言葉を使ったナショナリズムに似ている。そして、イスラム教はアフガニスタンのアイデンティティに根本的に結びついている。
3番目に、反乱軍への勧誘の成功である。
親米政権に対する反乱軍の勧誘力は本物で、昔と変化したタリバンの考えが、アフガニスタンの人々を魅了していることを証明していたという。
アメリカ人は2004年に1000人のタリバン兵しか言及しなかったが、学者のアントニオ・ジュストッツィは2006年に1万7000人という数字を打ち出し、2018年には6万人から7万7000人の戦闘員がいたという。現在は国連の報告書によると8万人となっている。
このような勧誘は、必ずしもイデオロギーに固執しているわけではない。
アフガニスタンは、前述したように、耕地可能な土地は12%しかない。
そのため、経済援助の獲得は、激しい競争の対象となる。親米政権からの援助も同じだった。そして不正がはびこっている。
また、麻薬、木材、宝石、金属などの希少資源の輸出も盛んで、合法、非合法の区別なく取引されている。
ある領域に恭順の意を示し、地域資源の一部の配送と引き換えに、外部からの資金や武器の恩恵を受けるためには、強力な保護者を常に求め続けなければならない。
この捕食経済のアクターたちは、時には協調するが、裏切り合うことのほうがはるかに多い。この国では、万人の万人に対する戦いが繰り広げられているという。
(なんだかマフィアやヤ○ザの世界を思い出させるが・・・内戦や抗争がはびこる社会は、世界中似るのだろうか)。
このような現状の有り様に反発する人々の中に、志願して戦闘員になろうとする者がいるのである。
4番目に、タリバンは一般的なイメージと異なり、意外に組織がしっかりしていることである。
昨年3月まで、国連アフガニスタン支援団(UNAMA)の代表を約4年にわたって務めた山本忠通氏は、朝日新聞に以下のように語っている。
やはり、一度でも政権をとったことがあるので、ただの過激派集団とは異なるのかもしれない。
ただ山本氏は同時に、懸念も示している。
そして最後に、タリバンの浸透や支配の仕方は、フランチャイズ式で、「タリバン運動」と呼べるようなものであることだ。
タリバンの支配の仕方であるが、複数の重要な拠点以外は、形式はフランチャイズだという見解がある。
呼び方も「タリバン運動」と呼ぶほうが適しているという。
つまり、たくさんのグループや派閥が、反政府勢力として連携しているということだ。
麻薬密売に関わる者たち、政治的に疎外されている部族、タリバン、アルカイーダ、その他のイスラム過激派グループなどの場合、これらが住民から現金や現物を受け取り、その一部の割り当てをタリバン本部に支払うのだという(これも何かを思い出させる・・・)。
また、地域の紛争を利用した戦略がよくとられているという。
具体的には、影響力を確保するために、一部の指導者が他の指導者に対して金銭的な支援を行うこと。このやり方は、部族や民族の対立、水や土地の問題を利用している。
存在が受け入れられた後は、爆発物の備蓄を行い、現地での攻撃のために若い新人に資金を提供する。これも、兵士勧誘の重要な手段である。
パシュトゥーン系少数民族の反ウズベク感情を利用したかと思うと、ウズベク系過激派が支配する村の協力を得る。また、地元司令官との経済協力など、いくつかの浸透手法を試みている。民族的な要素は、たくさんある要素の中の、一つの操作に過ぎない。タリバンの侵入は、イデオロギー的なものではない。
目的は、パシュトゥーン人を何らかのイデオロギーのもとに集結させることではなく、国際社会の中で増えつつある少数派が道を見失っているという見解を示すことであり、よりインパクトを与える攻撃を調整するためのルートを確保することであったという。
今までタリバンに協力をしてきた者の中には一部、過激派もいる。例えば、イスラム聖戦連合のウズベク人などのように。タリバンの司令官の中には、外国人ジハード(聖戦)主義者を、今まで共に戦ってきた戦友と考える者もいるという。
2019年1月の国連報告書では、特に中央アジア(特にタジキスタン)にもたらされる危険性が示されている。
それは、国の北東部で、タジキスタンにもまたがるバダフシャーンという地域に、現時点でタリバンの権限下にある約500人の外国人戦闘員が存在することであった。問題は、彼らがアルカイーダの資金提供を受けて活動しているとされることだ。
このような外国人戦闘員の過激派勢力の問題は、今後、諸外国がタリバン政権を承認するか否かの駆け引きで、必ず議題にのぼることだろう。
(アメリカ人は、タリバンは許容することがあっても、アルカイーダは絶対にできないに違いない)。
現在のところ、米欧先進国の関心事は、在住民の安全の確保、超過激なテロ集団との決別の保証や、女性の権利に注がれているようだ。
アフガン・ナショナリズムの不安な要素
広くアフガニスタン人の支持を得て、外国勢力を追い出すのに成功したタリバンであるが、これからの不安な要素もある。
大変重要なのは、地域による違いである。
アフガニスタンでは、首都カブール(や、小さく少ないが都市部)と、それ以外の田舎で、違いが大きい。特に首都カブールは、親米政権のもと、西洋的な自由や民主主義の薫陶(くんとう)を受けた。
また、南部とそれ以外の地域、南部と北部の違いも同様に大きい。
これは、地理が大きく作用している。
北部や南西部には平野があるものの、国土の4分の3は山岳地帯である(東部、中部、北部)。また、南部は砂漠である。
南部には同国人口の4割を占めるパシュトゥーン人が多い。
彼らは部族制と、部族の長たち+長老たちの会議システムが存在する社会をもっている。これは国土の大部分を占める他の非部族地域とは異なる点だ。
他の非部族地域では、人々の接点となる正当な対話者を見つけることが課題となるのだ。
この南の地域は、親米政権によって成し遂げられた社会的・経済的進歩の恩恵をほとんど受けておらず、歴史的にも保守的で愛国心が強い。
19世紀に大英帝国の介入や支配に反対したのも、この地方だった。また、その後アフガニスタンが王国として独立して、アマーヌッラー・ハーン王は西洋流の改革を行おうとしたが、それに反対したのも、この同じ地方である(ハーン王は1929年に王位を失った)。
親米政府への反対の動きや、「反乱軍」への参加には、不正や、地域の政治的緊張に直面したときの反発が動機となっていることが多い。汚職、戦争そのもの、それに伴う暴力や、「巻き添え被害」が主な原因となっている。
このような苦しみは、アフガニスタンの田舎、特にパシュトゥーン民族が支配する南部に偏っているのである。
確かにタリバンは、すべてのアフガニスタン人に語りかけようとしていたのは間違いないようだ。
実際に戦闘員は、パシュトゥーン人だけではなく、民族構成が多様化している。各地で人を集めることに成功してきたのだ。
アフガニスタンは、多民族国家と言われる。民族の争いはないわけではないし、国王による少数民族への抑圧の歴史もあるが、人口の大半にとって、パシュトゥーン人と、ウズベク人(隣国ウズベキスタンに主流の人々)、タジク人(隣国タジキスタンに主流の人々)、は兄弟であるという。
しかしそれでも、アフガン・ナショナリズムは、危険性をはらんでいる。
なぜなら、たとえタリバンが、アフガニスタン人全員に呼びかけていたとしても、何よりもまず、深いところで民族的なものであり、厳密にパシュトゥーン人の利益を守ることに関連しているからだ。
それは、タリバンの誕生と深い関わりがある。
1980年代は、宗教を否定する共産主義国のソ連が、アフガニスタンに侵攻して支配していた。主要な反対勢力として、タリバンは生まれた。
南に住むパシュトゥーン人は、隣国パキスタンにも多く住んでいる。かつてこの地を支配した大英帝国が、民族を分割するかのように国境線を引いてしまったのだ。
80年代には、何百万人ものアフガニスタンの若者が、パキスタンのイスラム主義政党が南部に設立したコーランの大学で教育を受けた。
「タリバン」という名前は、パシュトー語で神学生を意味する「タリブ」に由来している。
これらの大学は、伝統的なイスラム教への回帰を唱える「デオバンド教義」というものに基づいている。
これにパシュトゥーン文化の要素や、アラビア半島に起こった「ワッハーブ主義」(復古主義的な立場で、イスラムの純化を目ざす近代の改革運動)の要素が加わっている。例えば、名誉の掟では、犯罪に対する報復や復讐などが重視されている。
この点では、最近の歴史の連続性が保たれている。タリバン現象は、ソ連との戦争後に、北部のタジク人が台頭してきたことへの反発から登場した要素があるのだという。
タジク人とは、アフガニスタンの北東にあるタジキスタン国に主流の人々だ。宗教は同じイスラム教スンニ派である。
以前、過激派だったタリバンが約6年間アフガニスタンを統治していたときは、国土の9割を支配した。「北部同盟」は、反タリバン勢力となって細々と抵抗を続けていた。リーダーだった大変有名なマスレード司令官は、タジク人であった。
2001年に同時多発テロが起きると、アメリカと有志連合は北部同盟の味方をして、タリバン政権をつぶしたのだった。
外国の介入は、現地の反目や争いを、いつも煽ったり激化させたりしてしまうのだ。
保守的なモスクが人々の中心
アフガニスタンのアイデンティティを形作っているのは、何と言ってもイスラム教である。一般のアフガニスタン人において、イスラム教は、どんな姿なのだろうか。
国内のスンニ派モスクの中では、首都カブールでさえも非常に保守的な説教が行われていることがある。
外国の大使館や、リベラルなエリートの眼鏡を通してのみアフガニスタンを見ることに慣れた分析者は、驚きを隠せないかもしれないという。
やや古い数字だが、2011年5月には、アフガニスタンには3325の「公式」モスクがあった。一方で、当局に登録されていない非公式の礼拝所は、6万を下らなかった。そこでは「過剰」を含んでいる。
もちろん、それらは、必ずしもイスラム過激派を支持しているわけではない。しかし、タリバンの論理と互換性があるほど、非常に保守的であることが多い。
アフガニスタンに滞在したことのある人ならば、住民の日常生活において、近くにあるこれらのモスクの重要性に気づくのだそうだ。
この保守的な宗教者たちは、公の議論に干渉することをためらわない。人口60万人弱の、同国では大都市であるヘラートにおいて、宗教当局が野外コンサートやバレンタインデーを禁止することに成功した例がある。
タリバンは、ほとんど知られていないアフガニスタンに根ざした、地元の政治的および軍事的な勢力を代表しているのだ。
それは田舎(主に多数派のパシュトゥーン人が住む地域)で、保守的で、都市部ではなく、英語を話すエリート層でもないのである。
超過激派「イスラム国」支持者との対立
今後どうなるかはまだ不明だが、報道では今後の不安を掻き立てる内容が多い一方で、アメリカを含む先進国は、タリバンを糾弾して「絶対に承認しない」という態度ではないように見える。
タリバンを考える上で国際的に大事な点は、「イスラム国」の支持者とは一線を画してきたことだ。
自称「イスラム国」は、2021年の3月には、支配領域をほぼ無くし、壊滅状態となった。しかし、タリバンが政権奪還を狙っていた時代は、まだ恐ろしい脅威が続いていた。
日本人から見ると(筆者もそうだが)、イスラム過激派は全部同じに見えてしまう。「イスラム国」も、アルカイーダも、タリバンも、区別がつかない。
しかし、実際にはそれぞれが異なり、大変複雑だ。
確かに、1990年代、タリバンがイスラム原理主義だった時代、アフガニスタン国内の最も過激な原理主義者と、外国のジハード(聖戦)主義者は結びついていた。
だからこそタリバンは、アメリカの同時多発テロの首謀者、アルカイーダのビン=ラディンを、アフガニスタン国内にかくまっていたのだ。さらに「客人をもてなすべき」「客人を渡すわけにはいかない」という、現地の大変強い文化も影響していた。
両者を結びつけていたのは、どちらもスンニ派の過激派であることと、隣の大国イランに代表されるシーア派への憎悪だった。
状況を大きく変えたのは、戦乱が続くシリアとイラクで勃興した自称「イスラム国」であった。いわば「頭が一つ飛び出た、超過激で巨大な敵の登場」が、この地域の政治を変えた。
もともと「イスラム国」は、国際テロ組織アルカイーダの流れを汲む。しかし、両者は絶縁状態になっていった(アルカイーダは、「イスラム国」と違い、領土をもつ組織ではない)。
理由は、同じ「ジハード(聖戦)主義の過激派」といっても、あまりにも「イスラム国」が、「超」がつくほど残虐であること。そして、「イスラム国」のバグダディが「カリフ(最高権威者)」を名乗り、世界のイスラム教徒に対して自らに「忠誠」を誓うよう求めたことだ。これが関係悪化の決定打となった。
「イスラム国」の脅威を前に、隣国イランなどが融和姿勢を見せたこともあり、タリバンのシーア派への憎悪は薄れていった。シーア派との協力をためらわなくなった一方で、自国に浸透してこようとする「イスラム国」支持者への敵意はあるままだった。
2018年ごろアフガニスタンの近隣諸国では、一つの確信が深まっているように見えたという。それは、タリバンは、アフガニスタンにおいて超過激派「イスラム国」支持者との競争を制御しなければならないため、よりいっそう親米政府との対話は実現可能であるというものだ。
実際にタリバンは「イスラム国」支持者に対抗するために、非常に活発に活動していたのだという。近隣諸国は、この極度に過激な「ジハード(聖戦)主義」の危険性を清算するためには、タリバンは、最も効果的な勢力であると考えることさえあったのだそうだ。
これらのことを踏まえると、2018年にトランプ大統領(当時)が、なぜタリバンとの直接協議を開始したかがわかるように思える。トランプ氏らしい突飛なことをしようとしたのではなく、周辺国の理解を得ながら、超過激派の撲滅と、地域の安定のために、タリバンと和解を行おうとしていたのではないか。
当時、アメリカとタリバンの対話を支持する人々にとって、安心できる点があったという。それは、タリバンは、地域外交もそうであるが、公式声明で言うことは一貫していたことである。
すべての近隣諸国との平和を望むこと、地域の攻撃を望むテロリストグループの拠点として国土を使わせないことを代表者が保証すること、反乱軍の目標は地域の全権力を独占することではないことは、この当時既に明確にしていたという。
アメリカにとっては、冷戦時にソ連に対抗するため、同時多発テロ事件のあとはイスラム過激派との戦いのためには、アフガニスタンは重要であった。でも、それ以外には、特にアメリカの国益が生じる土地ではないかもしれない。以前のように、政権や周辺国との関係で一定の影響力が維持できるなら、それで十分なのかもしれない。
一旦手を引いて様子を見るというバイデン大統領の決断は、理解できる。
国家づくりの難しさ
タリバン側の発表によると、今後は首長国制の復活となり、地域の盟主や宗教指導者が力を握る政治を行うということだ。しかし、うまくいくのだろうか。
まったく中央集権的な要素をもたないのなら、国が一つにまとまることは難しいのではないだろうか。
この国に、アメリカ等は、中央集権的な民主主義をもたらそうとした。議会で政党が議論をする民主主義のシステムを構築しようとしたが、あまりにも素地が整っていなかった。
2004年に初の大統領選挙が行われ、翌年には議会選挙と県議会選挙が行われた。
ところが、宣言された政党数は99もあった。
(日本に置き換えてイメージするなら、人口比を考慮すると、340くらいあった感覚となる)。
議会や政府には、リベラルな産業主義者、共産主義後の進歩主義者、王党派の中央集権主義者、パシュトゥーン民族主義者、保守的なイスラム主義者、近代主義者など、さまざまなイデオロギーの色があったが、全国的なネットワークはなかったという。
思想はあるが党という構造をもっていないか、党はあるが思想を欠いているかのどちらかであった。大半は、議論をするためではなく、権力を得るための道具でしかなかったという(ただ当時、イデオロギー的にも行政的にも進んでいた2つの政党は存在した)。
資金の配分は、州の各省庁が予算を考えて、国の各省庁に提出、それが財務省に回され、最終的に国会で議決されることが条件となっていた。しかし、残念ながら、各部門はこのプロセスをよく理解しておらず、ほとんどの責任者は、年間プログラムの書き方やリクエストの優先順位付けを知らなかったという。
そして、地方の副大臣や知事は、自分がどのような権限を持っているのかわからなかった。
有能でやる気のあるメンバーがいたとしても、制度は上手く機能していなかった。そういう国情だったのだ。
これからタリバンに導かれたアフガニスタンは、どうなっていくのだろう。
わずか20年、はなはだ不十分で問題だらけだったとしても、人々は親米政府によって民主主義を体験してしまった。
超保守的な地域であっても、例えば選挙は経験している。指導者の強い地域では、話し合いで決まるのが実情だったというが、それでも制度として、選挙も議会も存在した。
教育をみれば、親米政権や外国の支援のおかげで、2001年当時に60万人だった就学児童が300万人にまで増えた。ほとんど就学できなかった女子も全体の4割を占めるまでになった。医療クリニックの数も格段に拡大したのだった。
もしこのような制度が消えてなくなったり、後退したりしたら、人々はどのように反応するのだろうか。
都会に暮らしたエリートや、自由を味わった女性や人々は、タリバンの保守性に我慢できるのだろうか。亡命するしかないのだろうか。殺されずに抗議は可能だろうか。超保守的な地域であっても、「何も変わらない伝統」を、今後もすべての人々は望むのだろうか。
長年内戦が続いた国内で、人々が望むのは、何よりも平和と不正のない社会だろう。一番の問題は、そのような社会を、本当にタリバンは実現できるのかということだ。
社会正義を実現したいと燃える人々から、社会に寄生するダニのようなグループまで、「外国勢を追い出す」という目標で束ねたきたかもしれないが、それは達成されてしまった。
また、タリバン運動は、主に指導者への絶対的な服従をイデオロギーとしていたが、ムラー・オマルの死(2013年4月に国内で死去)は、運動の統一性を保つことが難しくなるほどの打撃だったという。現時点ではどうなのだろう。
さらに、外国からの援助が必要な国情なので、援助を受ける代償に、外国の影響は避けられないだろう。どういう影響になるのか、国民はどう評価するのか。
もし国や政権の運営がうまくいかず、内紛が起きた場合、イスラム過激派が再び台頭して、過激な思想と方法で、国をまとめようとしてくる可能性は捨てきれない。
果たして、タリバンは信用できるだろうか。
ある著者は、タリバンの首都奪還より前に「持続可能な対応とは、首都のイデオロギー的な不協和音から離れて、村で、アフガニスタン人同士で、お茶を飲みながら議論し、決定するものです」と書いていた。
本当は、そのようなやり方がふさわしい社会なのかもしれない。しかし、大国や近隣国の思惑がうずまく地域で、そのような伝統的で牧歌的な方法は許されないだろう。
最後に:現代的な国づくりが厳しい土地柄
つくづく、中央アジア(とアフリカ)は、現代世界の構成基本となっている「国民国家」が、本来は適していない土地だと思う。「国民国家」とは、一つの国に一つの国民(時に民族)、一つの政府、一つの軍隊があって団結しているーーというような国の在り方のことだ。
フランス革命でうまれて世界に広がったこの国の在り方と思想は、ナショナリズムと深い関わりがある。「国境など(ほぼ)なく、広い地域に複数の同じような、あるいは異なるグループが共存している」という世界は、地球上から事実上消滅してしまった。
このことは、遊牧民の伝統や、他の遊牧民との共生、そして遊牧民の存在そのものを破壊する力がある。そのうえ、産業革命は遊牧民を、自然に合わせた人間の一つの生き方ではなく、ただの貧困に陥れてしまった。
※アフガニスタンの国技「ブズカシ Buzkashi」。馬に乗った2チームの選手が、頭をとったヤギや子牛の死骸をゴールに入れることを競う(全員を振り切る形式もある)。中央アジアに広く見られる伝統。このビデオのようではなく、もっとスポーツ化されているコンテストもある。
それと同時に、改革が難しいのは、山岳地域の特徴にも思える。結局、ソ連もアメリカも撤退したアフガニスタン。同じく山岳地域のバルカン半島と、似ているところがあると思う。
そんな世界にあって、国の統治機構がしっかりしていなければ、ロシア、イラン、中国、パキスタン、インド、その他の隣国、アメリカなど、外国の思惑にまた翻弄されてしまうのではないだろうか。
それに、アフガニスタン人同士の争いで、暴力が、女性や子どもという弱者に向かっている。国連の報告書によると、2021年上半期に同国で死傷した女性や子どもの数は、2009年の記録開始以来、どの年の半期よりも多かったという。
再び戦乱が起きて、安定と安心が築けなければ、人々はどうなってしまうのか。
世界の最貧国の一つでありながら、何か人を惹きつける、不思議な魅力のあるアフガニスタン。
「文明の十字路」が再び「戦乱の十字路」にならないよう、願うばかりだ。
アフガニスタンの国花、チューリップ。北部のクンドゥーズにて。短い春に咲き誇る、野生の真っ赤な花が美しい。
アフガニスタンは果樹栽培が盛んな、果物がおいしい国である。夏はぶどう、冬はざくろが有名だという。干しぶどう入りご飯もよく食べられるという。
【参考資料】
L'Insurrection talibane : guerre économique ou idéologique ?(2008)
https://www.cairn.info/revue-politique-etrangere-2008-2-page-345.htm
Afghanistan : peut-on faire la paix avec les talibans ?(2019)
https://theconversation.com/afghanistan-peut-on-faire-la-paix-avec-les-talibans-116323
Afghanistan : comprendre qui sont les talibans en 3 questions(Les Echos 2021)
アフガニスタン 世界史の窓
https://www.y-history.net/appendix/wh1301-062.html
JICA 国際協力機構 アフガニスタン
https://www.jica.go.jp/afghanistan/index.htm
UN News
https://news.un.org/en/story/2021/08/1097902
https://news.un.org/en/story/2021/07/1096382
NATO News
https://www.nato.int/cps/en/natohq/news_186033.htm
【追記】
亡くなった中村哲医師のロングインタビュー(2002年)が、一般公開された。人口の大半を占める、豊かではない田舎の人々から見たタリバンがよくわかる。こちらをクリック。