犯人不明で時効成立。夫のひき逃げ事件から40年。消えない家族の苦しみ
「あの夜、警察からかかってきた一本の電話から、私たち家族の平穏な生活は壊され、一変してしまいました。事件から40年経とうとする今も、つい昨日のように思い出されます」
『北海道交通事故被害者の会』会員で、虻田郡真狩村に住む気田光子さん(70)は語ります。
光子さんの夫・幹雄さん(当時36)が、凍てつくような寒さの中、真狩村の道路上で倒れているところを発見されたのは、1979年1月17日未明のことでした。
すぐに札幌の救急病院へ搬送。緊急の開頭手術を受け、なんとか一命はとりとめたものの、脳の損傷は酷く、意識不明の状態が続きました。
「事件当時、長女は8歳、下の子は妊娠3か月でした。頼り切っていた夫が突然こんなことになり、本当に辛くて、死んだほうがどれほど楽だろうと何度も思いました。でも、そのたびに娘は泣きながら言ってくれたのです。『どんなことでも我慢する、寂しくても我慢する、協力する、一緒に母さんと頑張るから』と……」
幹雄さんはその日、会社の新年会に出席していました。ところが、倒れていたのは自宅近くの店から約4キロも離れた、街灯もない真っ暗な路上。家族は厳冬の1月にそのような場所まで移動していた理由がわかりませんでしたが、着衣に油や土が付着していたことから警察は大型トラックによるひき逃げ事件として捜査を進めました。
その年、光子さんは妊娠中だった二人目の子を一人で出産しました。そして、幼い娘と乳飲み子を抱えながら、病院通いの日々を続けました。
事故から約1年後、奇跡的に意識を回復した幹雄さんですが、脳には重度の後遺障害が残り、事故前の優しかった夫、そして子煩悩だった父親としての姿を豹変させました。
「ようやく目を開いた夫は、事件後に生まれた息子のことすら認識できなかったのです……」(光子さん)
幹雄さんはそのまま、約4年間に及ぶ長い入院生活を余儀なくされました。
その間、容疑者に結びつく手がかりはなかなか見つからず、捜査にはほとんど進展がありませんでした。
■当時、ひき逃げの時効はわずか5年だった
事件発生からちょうど5年が経った1984年1月、ひき逃げ事件の時効を迎えました。幹雄さんが事故に遭った1979年当時は、救護義務違反(ひき逃げ)の時効は5年だったのです。
ひき逃げ犯が見つからないということは、十分な損害賠償も受けられないということです。自賠責保険の代わりに支払われる政府保障事業からの補償金(当時は2000万円)も、長引く入院や医療費の支払いですぐに底をつきました。
光子さんは振り返ります。
「脳に障害を負った夫が、我が子とおやつを取り合う姿を見るたびに、私は悲しくなりました。身体には麻痺も残り、入浴のときも娘と二人がかりでの介助が必要でした。経済的にも追い詰められ、本当に苦しい毎日でした。でも、わずか9年間でしたが、幸せな結婚生活の思い出があったからこそ、事件後の介護の日々を乗り越えられたのだと思っています」
何とか介護福祉士の資格を取得した光子さんは、幹雄さんの介護をこなしながら懸命に働き続け、女手ひとつで二人の子どもを育て上げたのでした。
2017年、幹雄さんは75歳で亡くなりました。
事件から38年……。あの日を境に、人生の半分以上を未解決事件の「被害者」として生きたことになります。
■殺人罪の時効も遺族の声で撤廃された
「被害者、遺族の苦しみは一生続くのに、逃げた犯人は短期間で刑事責任から解放される……。これは被害者感情にも、国民感情にも反するのではないでしょうか。私たちの会では今年も、法務省や警察庁などへの要望書の中に、被害者が死亡、重度障害を負ったひき逃げ事件については、時効を撤廃するべきだという要望を盛り込みました」
気田さんが会員として参加している「北海道交通事故被害者の会」代表の前田敏章氏はこう訴えます。
そもそも犯罪の「時効」とは、どのように決められているのでしょうか。
時効の期間を延長したり、撤廃したりすることは、はたして可能なのでしょうか。
弁護士の内藤裕次氏(同会副代表)に、法律家の立場から説明していただきました。
――時効期間はどのように決められているのでしょうか。
「公訴時効とは、犯罪が終わったときからある一定の期間が過ぎると、刑事裁判が起こせなくなることです。その期限は刑事訴訟法(第250条)において、『刑の重さ』と、『被害者を死亡させたか否か?』によって細かく定められています。現時点では、死亡ひき逃げ事件の場合、救護義務違反(ひき逃げ)の時効は7年、自動車運転過失致死罪(事故で人を死亡させた罪)の時効は10年となっています」
――時効を延長したり、撤廃したりすることは可能ですか?
「可能ですが、法律の改正が必要で、相当高いハードルだといえるでしょう。しかし、過去に殺人事件の時効が延長されたように、犯罪被害者や遺族の切実な声が法律自体を大きく変えてきたのも事実です」
内藤氏が挙げたように、かつて殺人事件の時効は15年でしたが、2004年の法改正で25年に延長されました。
さらに、「全国犯罪被害者の会(あすの会)」や「宙の会」が殺人事件の時効廃止の要望を出したことをきっかけに議論が高まり、2010年には、ついに『殺人』の時効が撤廃されたのです。
■そもそも、なぜ「時効」があるのか?
「時効」に対する考え方や期間は、国によって異なります。
日本の場合、その根拠とされてきた趣旨は以下の3点です。(法務省『凶悪・重大犯罪の公訴時効の在り方について』2009.3.31より抜粋)
1) 時の経過とともに証拠が散逸してしまい、起訴して正しい裁判を行うことが困難になる
2) 時の経過とともに被害者を含め社会一般の処罰感情等が希薄化する
3) 犯罪後、犯人が処罰されることなく日時が経過している場合には、そのような事実上の状態が継続していることを尊重すべき
2と3を素直に読むと、時間が経てば被害者の怒りは薄れ、犯人が長期間逃げ続けている現状を尊重すべき、ということになります。
しかし、前田代表は、こうした国の考えはもはや時代にそぐわないと指摘します。
「まず、2と3は、言語道断です。犯罪被害者等基本法では、被害者の権利が図られる社会の実現を強調しています。被害者の悲嘆を犠牲にして、犯人を保護すべき理由などあるはずがありません。特に、『処罰感情等が希薄化する』など、甚だしく不当で実情を無視したものです。当会の気田さんのような被害者にとって、真相を知り、容疑者を厳正に裁いてもらいたいという痛切な思いは、日時の経過によってより深く刻まれることはあっても、決して薄れるものではありません。最近は、防犯カメラやドライブレコーダーなどで客観的な証拠が残るようになりました。また、DNA鑑定など科学的な検証も可能になり、時間が経過しても犯人特定が可能です。時効が撤廃されれば、いつの日か犯人逮捕につながるかもしれないのです」
■法改正の予定は? 法務省に聞いた
では、「ひき逃げの時効延長や撤廃」という被害者からの要望について、国はどうみているのでしょうか。また、今後改正されることはあるのでしょうか。
法務省刑事局刑事法制企画官・玉本将之氏に取材しました。
「現時点において具体的な法改正の予定はありません。いわゆるひき逃げの事案で、過失運転致死罪が成立する場合や、殺人罪や傷害罪が成立する場合には、その公訴時効が完成していない限り、救護義務違反罪について公訴時効が完成していても、なお、公訴提起をすることが可能です」
つまり、過失運転致死罪に問われるような被害者死亡のケースでは、同罪の時効が10年なので、逃げたことに対する時効(7年)が先に成立しても、あと3年は犯人を追跡することができる。逮捕、起訴が可能だということです。
また、「ひき逃げ」は、「飲酒運転」を隠すために行われることが多いと言われています。数時間逃げれば、体内からアルコールが抜けるからです。こうした証拠隠滅ともとれる悪質な行為について、国は新しい法律で厳しく罰しているといいます。
「2013年に制定された自動車運転死傷行為処罰法においては、飲酒により運転に支障が生じるおそれのある状態で自動車を運転し、必要な注意を怠って人を死傷させた者が飲酒の発覚を防ぐために逃走するなどした場合には、過失運転致死傷アルコール等影響発覚免脱罪(12年以下の懲役)とするなど、適切な処罰をすることができるようになっています。時効の延長や撤廃は法改正をすれば可能ですが、ひき逃げの事案の救護義務違反だけ特別な取り扱いをすることは、他の犯罪との均衡等もあり、慎重な検討が必要と考えられます」
2018年11月8日付の拙稿『「ひき逃げ」の時効をなくしてほしい。大切な人を失った遺族たちの訴え』でも取り上げたとおり、未解決事件の被害者遺族は、「“逃げる”行為は殺人と同じ、ひき逃げの時効は撤廃すべき」と強く訴えています。
一方、国としては、救護義務違反はあくまでも道路交通法違反にすぎないなので、一足飛びに時効の延長や撤廃は不可能……。どうやらこのあたりに法的な限界があるようです。
■刑事訴訟法学者の見解は……
では、刑事訴訟法の専門家はひき逃げ事件の時効問題をどう見るのでしょうか。
龍谷大学法学部の福島至教授に聞きました。
「未解決事件の被害者やご遺族のお気持ちはよく理解できます。しかし、捜査員の数や労力には限りがあり、ひとつの事件を追い続けることは不可能です。逆に、時効を伸ばしたり撤廃したりすることで、迅速であるべき捜査の動きが緩慢になる恐れもあります。長期間経過してから容疑者が逮捕された場合、立証は難しく、冤罪を訴える人も出てくるでしょう。そうした視点からも配慮が必要です」
福島教授は、むしろ初動捜査の充実にこそ力を入れるべきだと訴えます。
「日本の場合、特に交通関係の事件は軽く扱われがちで、司法解剖など法医学的な捜査も行われていないことが多いようです。その結果、真実が明らかにされないまま迷宮入りというケースも少なくありません。また、ひき逃げだけでなく、交通事故を装った殺人事件なども発生しています。時効撤廃の前に、初動捜査の充実に向けての建設的な議論が必要だと思います」
■時効が過ぎても続く、被害者遺族の苦しみ
平成28年に発生したひき逃げ件数は8448件。そのうち、死亡事故の約10%、重傷事故の25%は未解決のままです。軽傷事故も含めると、全検挙率は56.8%にとどまっています。
北海道交通事故被害者の会の内藤氏も、今後の取り組みについて語ります。
「救護義務違反に限った時効の撤廃や延長は、他の犯罪とのバランスもあり、感情論で押し切れる問題でないことは重々承知しています。しかし、当会では今後も被害者・遺族の苦しみと怒りに時効はないことを訴え、同様の事件の抑止にもつなげていきたいと思っています」
8歳のときに父親が被害に遭い、その後、38年間にわたって両親を支え続けてきた気田さんの長女・直子さん(48)は語ります。
「昨年、父が亡くなったとき、これで父さんはやっと楽になれた……、そう思いました。私も、分からない誰かを恨む人生はもうこれで終わりにしよう、と自分自身に言い聞かせました。でも、それは本音ではありません。父をこのようにした人物が何の咎めも受けず、今もどこかで普通の暮らしをしているのだと思うと、やりきれない気持ちです。時効さえなければ、少なくとも犯人はずっと緊張して暮らしていたはず。せめて、そうであってほしいのです」
被害者への責任を放置して「逃げる」という行為が、逃げることによって「無」になる……。
納得できない被害者、遺族の訴えは、今も続いています。