【河内長野市】長野の諸越長者とは?橋の名として残っている諸越橋あたりを散策してみました。
河内長野の駅前でも、バスロータリーやノバティながのがある西口に対して、東口は石川が流れ、その先に山が迫った長野公園があります。
また昔の長野温泉の名残があるなど、独特の雰囲気がありますね。そんな石川から観心寺方面に続く道にかかっているのが諸越橋(もろこしばし)です。
諸越橋は、河内長野駅から観心寺方面に行くときに、いつもバスに乗りながらわたる橋ですね。最近はこんごう福祉センター方面に行くときにもこの橋を渡ります。
さてこれは今年の初めごろに行われた、モックルコインが貰えるというスタンプラリーです。最終的な答えが「モロコシチョウジャ(諸越長者)」だったのですが、そもそも諸越長者とは何者なのかとても気になりました。
そこで諸越橋の周辺を歩きながら諸越長者のことを調べてみることにしました。
ちなみに諸越橋については、河内長野市図書館の動画で詳しく紹介されています。諸越長者からつけられた説とは別に、古い記録に唐川という川を越すようなことが書かれているらしく、唐(から)が唐土(諸越:もろこし)なったようなことが紹介されていました。
江戸時代に架けられた橋の長さが12間(21.816メートル)幅が2間(3・636メートル)あるという記録も残っているそうです。
いつもはバスであっという間に通り過ぎる諸越橋なので、今回は歩いて渡ってみることにしました。
諸越橋全体が見えるところから撮影しました。橋はバスなどが走る道路橋とは別に、手前の薄緑色した歩道橋のふたつがあります。
歩いて渡るので緑色の歩道専用の橋を渡ります。ここは高野街道から奈良県五條につながる大沢街道を結ぶ橋でとても重要なことから、何度も橋の架けなおしがあったそうです。
詳細はこちらの動画で紹介されていますが、動画を見て要約すると、次のような変遷があるとのこと。
- 1745(延享2)年 橋ができる(記録上もっとも古い)
- 1765(明和2)年4月25日 橋が落ちる
- 1767(明和4)年 橋ができる
- 1848(嘉永元)年 大水で橋が流出
- 1850(嘉永3)年 橋ができる
- 1875(明治8) 年 橋をかけ替えるために仮橋をつくる
- 1877(明治10)年6月3日 橋ができる
- 1952(昭和27)現在の橋が架設
記録に残っているだけでも、これだけ橋が流れ落ちては新たに橋が架けられています。いかに諸越橋が重要なのかわかりますね。
歩道側の橋から道路側の橋を眺めました。道路の下側をみるとアーチ状に支えているのがわかる上路アーチ橋です。
諸越橋については河内長野市図書館の動画が詳しく3本もあります。3本目は誰が橋を架けたかについての紹介でした。
詳細は動画をご覧いただくとして、橋郷十ヶ村という組合があって、橋の東西それぞれの村、合計十村で橋を架ける費用を分担していたそうです。
- 長野村、西代村、古野村、向野村(橋の西)
- 河合寺村、寺元村、鳩原村、太井村、小深村、石見川村(橋の東)
ただ負担の割合などで揉めて、最終的には解散したそうです。
諸越橋を渡り終えたところに、諸越長者と言う人が住んでいたそうです。調べると平安時代の頃の人で、石川を渡った先の高台に住んでいたお金持ち(長者)だったようで、石川を通る船の交易で儲けていたようです。
ところがあるときに、楽しそうに笑う貧乏な農夫を見て「ああなりたい」と長者が考えるようなりました。
ある日、旅の僧を泊めたときに、なぜか長者はあの農夫のように、貧乏になる方法を僧に相談しました。そうすると、毎日3度ごはんを食べたときに、箸を裏山に捨てたら良いというアドバイスを受けたそうで、それが塚になれば願いが叶うと言われたそうです。
長者夫婦は言われた通りに毎晩箸を屋敷の裏山に捨て続け、箸が塚のように溜まると本当に貧乏になってしまったという内容でした。
それが以前ご紹介した黄金塚のもとになったという説があるそうです。貧乏になるためにできた塚だったのに、後の時代に黄金が埋められた話になったのは面白いですね。
その説が正しければ、長野公園(奥河内さくら公園)の広場には、元々諸越長者の屋敷があり、そののち河合寺城の城郭の一部を経て、明治時代の長野遊園と現在の桜公園という歴史の移り変わりも興味深いところです。
というわけで諸越橋を渡りながら、諸越橋の歴史と諸越長者についていろいろ調べました。橋がないとバスで観心寺や金剛登山口方面に行けなくなることを考えると、江戸時代だけでなく今も大切な橋なんだと改めて感じました。
諸越橋
住所:大阪府河内長野市菊水町、末広町
アクセス:南海・近鉄河内長野駅から徒歩5分