【河内長野市】奥河内の黄金伝説!奥河内さくら公園内にある楠木正成の黄金塚と河合寺城跡とは
河内長野駅の裏側にある長野公園(奥河内さくら公園)は、桜の花見でおなじみですが、5月に手作りのこいのぼりが揚げられるなどのイベントも積極的に行われています。
しかし、そのほかにもまだまだ気になるものがあります。
奥河内さくら公園は入口からの階段に季節を感じるものが展示されていて、それを見るだけでも楽しいですが、今回は階段の上の広場までいきました。
そして広場内にある黄金塚というのを見てきました。
黄金塚の位置を確認しましょう。入口から階段を上がって広場に出たところからみて右上にひっそりとあるので、見落としやすいかもしれません。
広場から見た黄金塚の方向です、後ろ側には楼閣(回廊風展望休憩所)があります。黄金塚は大きな木の下にありました。
こちらが黄金塚ですね。黄金塚を調べると、楠木正成が黄金を隠したという埋蔵金伝承からそのように名付けられたと言われているそうです。
かつては塚の石碑のすぐ横に説明版があったようですが、私が訪問した時には、残念ながらありませんでした。
黄金塚を拡大しました。この時には見つけられませんでしたが、過去に黄金塚を訪問した複数の人の画像に、説明文が写っていましたので、引用しましょう。
では黄金塚の周りを歩いてみましょう。
塚そのものは石をきれいに積んだ石垣のようになっています。
いろいろ調べましたが、いつ頃このように石が詰まれたのかは情報がなくわかりません。
南北朝時代のものがこのまま残っているのか、明治時代に長野遊園という遊園地がこの地に造られたときに伝承をもとに整備されたものかといった情報も出てきませんでした。
あくまで伝承なので、本当に黄金が埋められたのかは謎のまま。
仮に本当に正成が黄金を埋めたとしても、例えば対立していた北朝側の人間とか、誰かに盗掘されたことも考えられます。
私が訪問した時には説明版もなくなっており、「黄金塚」という石碑だけがかろうじてここに黄金の伝承が残っていたことを裏付けているだけです。
ちなみに現時点では河内長野市の文化財などにも指定されていません。
ただし、長野公園の下に流れる石川に「黄金橋」と呼ばれる橋があるのですが、この橋の名前の由来は黄金塚からつけられているそうです。
ちなみにこの広場に、かつて正成の属する南朝側についた河合寺の僧兵が守っていたとされる河合寺城があったという伝承についても、北朝の攻撃により城が焼かれたのちは、遺跡のようなものは何も残っていません。
伝承ではこの広場が二の丸跡とのこと。
広場から見える背後の高台、展望台のあたりが河合寺城の本丸跡という情報がありました。
広場や展望台のあたりは桜の花の咲くころはとても美しい場所ですが、季節関係なく歴史に思いをはせて登ってみてもよさそうです。
入口から階段が続いて急な印象のある公園広場の上りも、大手口から城に向かう道と思って登れば、少しは楽かもしれません。
長野公園(奥河内さくら公園)の黄金塚
住所:大阪府河内長野市末広町2
アクセス:南海・近鉄河内長野駅から徒歩9分
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