「脱成長」は呪いか、福音か
「脱成長」(degrowthまたはpost-growth)という考えについて、日本では斎藤幸平氏の新書『人新世の「資本論」』がベストセラーとなり、多くの人の知るところとなりました。日本に紹介された脱成長は、保守陣営からは反発を受けたか一笑に付された印象がありますが、これは想像通りでしょう。しかし、少なくない経済人が一定の評価をもってこの議論を受け止めたようにもみえました。一方で、リベラル陣営は脱成長の議論を一斉に歓迎したかというと、必ずしもそうではありませんでした。今回は、この点を意識しつつ、僕自身の受け止めについて書きたいと思います。
脱成長への第一印象
無限の経済成長を前提とする資本主義システムが、有限な地球の上でいつか原理的に行き詰まるという指摘は以前からありましたし、そのシステムの外側を探求する思想的な企ても繰り返し行われてきたでしょう。しかし、ここで「脱成長」とよぶのは、そうした考えの抽象的な総体ではなく、2000年ごろに入ってヨーロッパを中心に体系化されてきた、特定の思想運動のことです(斎藤氏の主張する「脱成長コミュニズム」は、そこに彼独自のマルクス研究の成果を組み合わせたものです)。
脱成長がどんな思想であるかは後で少し詳しく述べますが、その前に、僕自身の第一印象を書いておきます。正直に言うと、僕は斎藤氏の新書を読んだ段階では、脱成長の必要性にそれほど深く納得することができませんでした。むしろ、「脱成長しないと脱炭素は不可能だ」と言われると、「脱成長なんて不可能に決まってるから脱炭素も不可能だ」と思う人が多いだろうから困ると感じました。
今思うと、この時点での自分は再生可能エネルギー(再エネ)拡大などを経済成長と両立させる「グリーン成長」による脱炭素を素朴に期待していました。後からわかったことですが、斎藤氏も脱成長を理解する前はグリーン成長派だったそうです。また、国際的な脱成長論の中心人物の一人である経済人類学者ジェイソン・ヒッケル氏も同様に、以前はグリーン成長派だったと述懐しています。
脱成長について詳しく調べてみると、自分の考えはかなり変わりました(脱成長についての僕の理解は『「グリーン成長」の次のパラダイムは何か?』という文章にまとめておりますのでそちらもご覧ください)。
まず、ヒッケル氏らによれば、脱成長とは「エネルギーと資源の利用を計画的に減少させつつ、社会の不平等を是正し幸福を向上させることは可能であるという仮説の下、そのような社会経済システムへの移行の実現を唱道する理論ならびに社会運動」のことです。この定義では、GDPの減少を明示的に目指しているわけではない点に注意してください。エネルギーと資源の利用が減少する結果、GDPは減っても構わない、という立場です。
次に、脱成長へのいくつかの基本的な誤解を解いておきたいと思います。第一に、脱成長すべきは先進国(Global Northの意味で「北側」)であり、発展途上国(Global South、「南側」)は成長すべきと脱成長論者は言います。南側が成長するために北側は南側からの搾取や南側への汚染の押し付けをやめるべきであり、そのためにも北側の脱成長が必要となります。
第二に、脱成長すべきは生活への必要性の低い産業分野であり、再エネなどの必要な産業は成長すべきと脱成長論者は言います。斎藤氏の著書で再エネの限界が主張されていることから、脱成長論者が再エネの普及に否定的だという誤解があるようです。脱成長論者は「無限に成長しても再エネや省エネ技術が増えれば大丈夫」という考えを批判しているのであって、脱成長を目指したとしても、再エネや省エネ技術は急速に(ただし、より現実的な速度で)普及する必要があることに変わりはありません。
第三に、脱成長は不況とは違います。「失われた30年の日本はすでに脱成長しているじゃないか」という人がいますが、これは誤解です。脱成長では、生活に必要性の低い経済活動を計画的に縮小する一方、生活に必要なサービス(医療、教育、介護など)は充実させ、無償提供すると構想されています。不況とは逆に、格差も雇用も改善することを目指します。「今より不幸になるけど我慢してくれ」という話ではなく、今より幸福な社会を創る構想なのです。
富裕層の過剰消費という大問題
そして、僕自身が特に納得した脱成長論のポイントがあります。それは「富裕層による無尽蔵な過剰消費を規制すべき」ということです。World Inequality Databaseによれば、2019年の世界の温室効果ガス排出量のうち17%は上位1%の人口により、48%は上位10%により排出されました。下位50%の人口が排出したのは12%に過ぎません。しかも、上位1%の排出量は近年30年間で特に増加しています。つまり、富裕層の贅沢消費により大量の温室効果ガスが排出されており、これが人類を「1.5の温暖化」へと押しやる大きな原動力になってしまっています。
僕にはこの問題が、例えばこんなふうに見えます。大勢の人が乗った船が遭難したことを想像してみてください。船には限られた食料が載っています。ところが、乗客のうち一部の金持ちがこの食料の大半を買い占めました。彼らは食料を好きなように食べ始めたどころか、食べきれない分をどんどん海に捨て始めたとしたらどうでしょうか。これと同じような構図が実際に起きているのが、現代の経済システムにおける富裕層の過剰消費ではないかと思うのです。
遭難した船でこれが起きたら、残りの乗客は彼らの行為を犯罪的であると非難し、全力で彼らを止めるでしょう(自分が生き延びられるかどうかが懸かっていますから)。ところが、現代の経済システムにおいて、富裕層が自分のお金を払って過剰消費することをとがめる仕組みはまったくありません。富裕層にも悪気がありません。今のシステムではそれが許されており、お金をいくらでも払えばいくらでも消費できるのが当然といえるからです。
しかし、これを許容したままでは、いくらエネルギー消費を技術的に抑制し、エネルギー供給を再エネ等で賄おうとしても、スピードが追い付かないという懸念があります。経済成長を前提としたグリーン成長路線で2050年ごろに脱炭素化するエネルギー経済のシナリオを描くことはできますが、IPCCで参照されているようなそれらのシナリオでは、GDPとエネルギーの急激なデカップリング(GDPが成長してもエネルギー消費が大幅に減少すること)、急激な再エネ導入速度、大気からの大規模なCO2除去のいずれか、あるいはその組み合わせが必要となり、実現性に大きな疑問があるのです。
脱成長を真剣に論じる意義
では、富裕層の過剰消費をどうやって規制するのでしょうか。脱成長論で主張される政策には、高額の富裕税、所得上限の規制、プライベートジェット機やSUV車の禁止などがあります。また、富裕層に限らず社会に組み込まれた過剰消費を抑制するための様々なアイデアもあります。例えば、飛行機に乗るたびに「マイル」が貯まるのではなく、逆に乗れば乗るほど高い料金を徴収すれば、飛行機の過剰利用が抑制できます。
消費欲求を喚起する広告を制限する方法もあります。実際にオランダのハーレム市では公共の場での「肉の広告」を禁止にしたそうです(日本でもタバコの広告が禁止されているのと同様と考えれば理解しやすいでしょう)。また、消費を促すために企業が意図的に製品の寿命を短くする「計画的陳腐化」を禁止し、修理の権利を拡大することでも過剰消費が抑制できます。
過剰消費の社会的な有害性の認識を共有すれば、このような抑制政策は、脱成長論者でなくともリベラル寄りの人の多くに方向性としては支持されうるのではないでしょうか。さらに脱成長論では、格差を是正し労働者や生活者の権利を拡大するための、無償の公共サービス、労働時間短縮、企業経営の民主化といった政策を掲げます。これらはさらに、リベラルに広く支持されやすいでしょう。
もちろん、これらの政策の中には、現状の社会システムにおいては政治的な実現のハードルが極めて高いものもあります。しかし、これらの実現を待たなければ、再エネの普及などのグリーンな政策を推進できないわけではもちろんありません。従来からのグリーンな政策を推進しながら、同時に、過剰消費抑制の必要性の認識を広く共有して、その実現の道を探っていくことは可能ではないでしょうか。
もっとも、脱成長の最終的なゴールは壮大であり、おそらく富裕層との政治的闘争に勝利し(ただし民主的に。圧倒的多数派は非富裕層なのですから)、消費の拡大を前提としなくても経済が回る新しいシステムを社会に実装することでしょう。しかもこれが世界規模で起きる必要があります。これは、文明の歴史において奴隷制廃止や脱植民地化に相当するスケールの話です。そこまでの「大きな物語」に乗れる人は現状ではそう多くないかもしれません(僕自身も完全に乗れているわけではないです)。しかし少なくとも、その方向に近づくことが、社会的に公正な脱炭素社会の実現への近道である可能性について、もっと多くの人が真剣に議論を交わす必要があると僕は思います。
(初出:岩波『世界』2023年2月号「気候再生のために」)