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<休校延長か、学校再開か 3つの価値の衝突>安全第一だが、子どもたちの学びはどこへ?

妹尾昌俊教育研究家、一般社団法人ライフ&ワーク代表理事
(写真:アフロ)

 新学期を目前に控えたいま、学校を再開するか、休校(臨時休業)とするのか、揺れている。

 昨日(4/1)、東京都教育委員会は、都立学校(高校、特別支援学校等)の臨時休業をゴールデンウィークが終わる5月6日まで延長することを決めた。都内の市区町村立学校も同様の措置をとる可能性がある、と報道されている。神奈川県では、県立学校を4月6日の始業日以降、2週間程度、臨時休業とする予定(3月30日時点の方針)。横浜市は今月8日からの授業再開を決定しているが、見直す可能性があるという。ほか、新型コロナウイルスの感染が拡大している都市部を中心に、各地でも、学校を再開してよいものかどうか、検討しているところが多数のようだ(NHKニュース「関東6県の休校検討状況」など)。

■学校は3密を避けられるのか?

 再開か、休校か。教職員や保護者の声もさまざまだ。「感染防止のため、やむを得ない」、「全国一斉休校のときより感染者数は増えて事態が緊迫しているときに、再開するなんて考えられない」といった意見も多い一方で、「あと1カ月もこの状況が続くのはつらい」、「子どもが家にいると、仕事にならない」という保護者も多い(毎日新聞2020年4月1日など)。ぼくも、小学生から高校生までの4人の子育て中で、ここ1カ月ずっと子どもたちを在宅ワークしながらみているので、両方の意見ともに共感できる。

 さて、3つの条件、密閉、密集、密接を避けるように、とよく言われるが、普段どおりなら、教室はまさに「3密」だ。窓を開ければ、換気はよくなるので、密閉は避けられるかもしれないが、北海道など肌寒い地域もあるし、雨が降り込んでくる学校もある。

 密集と密接は、率直に申し上げて、かなり厳しい。OECDの2017年のデータによると、日本の公立小学校はOECD諸国のなかで1教室あたりの児童数(クラスサイズ)がとても多い。正確には、チリが最も多くて1クラス28人だが、日本は27人で、僅差のワースト2位。他の国は20人以下もある。公立中学校については、日本は1クラスあたり32人で、OECD諸国のなかでワースト1位だ(OECD Education at a Glance 2019)。

 上記は平均値なので、少子化が進んでいる地域では少なくなるが、日本は国の制度としても、1クラス40人学級(小1のみ35人学級)というものだから、学校によっては40人がひとつの教室にひしめいている。しかも、新しい学習指導要領(小学校ではこの4月からスタート)では、主体的で対話的な学びをしようと言ってきた。密集かつ密接なところ、それが学校である。

 次の写真は、ある公立中学校の教室での机の間隔。

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※知人より提供

 写真を見てイメージできるように、学校で、密集と密接を完全に避けることは不可能だろう。

 このことは文科省もさすがにわかっていて、学校再開に向けたガイドラインのなかでもこう述べている。

多くの学校においては人の密度を下げることには限界があり,学校教育活動上,近距離での会話や発声等が必要な場面も生じることが考えられることから,飛沫を飛ばさないよう,咳エチケットの要領でマスクを装着するなどするよう指導すること。

出典:文部科学省「新型コロナウイルス感染症に対応した学校再開ガイドライン」(令和2年3月24日)

 そう言われてもマスクもないし、という反論もある。

 それに、政治家の方らは、学校を再開する場合でも、感染症対策には「万全を期して」などとおっしゃるが、「万全」とはいかない。「万全」とは、全く完全で、すこしも手落ちがないことを意味する日本語である。いますぐ40人学級が解消されるわけではないし、分散登校にしても限界はあるので、3密を避けることは限定的となる。

※誤解してほしくないが、だからといって、学校での新型コロナウイルス対策がテキトウでよいなどとは全く思っていない。最大限の努力をするということは必要だ。

 いま必要なのは、完璧にはいかないことを前提に、どうしていくか、考え、準備を進めることだろう。たとえば、学校を再開する場合であっても、「学校はこうこうの対策は取ります。教職員も一丸となって対策に努めます。ですが、感染リスクをゼロにはできませんし、子どもたち同士の活動と生活のなかで、密集や密接となる場面は出てきます。つきましては、それらのことをご承知おきのうえで、登校させるかどうか、家庭でご検討ください。」という文書を出す必要があるのではないか?万全などと虚勢を張っていては、万一、学校で感染が発生したとき、苦情や訴訟になりかねないと思う。

■衝突する3つの価値

 しかも、学校再開か休校かを判断するうえで、考慮すべきは感染拡大にならないかどうか、だけではない

 少なくとも3つの重要な価値がある。下の図を使って説明しよう。

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※筆者作成

 第一に、「安全」だ。子どもたちの命と健康を守ることが最も大切であることに、異論をはさむ人はいないだろう。幸い、これまでは子どもたちが重症化している例はまれだが、今後はどうかは、わからない(たとえば、石川県では小学生の感染例が報告されている)。

 また、学校(教室、職員室等)が社会の感染を広げないことも重要だ。日本の学校では、先生たちが過労死ラインを超えるほど、働いている。また、小学校などでは教職員数もギリギリの人数でやっとこさ成り立っているので、ちょっと体調が悪いというときにも気楽に休みづらい(授業に穴をあける、あるいは担任をする学級のことを心配して)。学校は3密に加えて、「過密な過重労働」の場でもあるのだから、睡眠不足などで免疫力が下がっている教職員が多少無理してでも出勤する、新型コロナにかかる、広げるという可能性はあるのではないか。

写真素材:photo AC
写真素材:photo AC

 第二に、「教育上の価値」だ。言い換えると、子どもたちの学び、心身ともに健全な育成を止めてはいけない、ということでもある。憲法でも学習権が保障されているが、休校にすることは、これを一部は制限することにつながる。

 また、いくら感染予防が大事だからといって、授業中や給食などで、一切しゃべらない、対話しないとなると、それが本当に教育上いいのか、という疑問がわく。横浜市立日枝小学校の住田昌治校長は、こう述べている(ウェブ論座記事2020年3月30日)。

これからは手が触れる場所は消毒し、席を離して、よそ見せず話もせず黙々と食べ、距離を置きながら片づけるのでしょう。掃除時間もマスクをして、黙って、友達と関わらず、前を向いて黙々とやるのでしょうか。休み時間は、友達と接触しないように、バラバラに遊ぶのでしょうか。

絶対無理です。そんな学校が楽しいわけありません。来たくない学校にするわけにはいきません。

 このように、安全という価値と、教育上の価値は、ときとして衝突する(どちらかを立てると、片方は立たないというトレードオフ)。

 なるべく両立するように知恵とカネを出していかないといけないことだ。だが、海外とちがって、日本の小学校や中学校でのオンライン授業やウェブでの交流を実施している例は非常に少ない。筆者の独自調査では1割いかない(「休校中、先生たちはヒマだったのか?(教職員調査から見る、休校中のリアル)」)。また、自宅にネット環境やデバイス(パソコンなど)がないところも少なくない。

 事実上、安全という価値を優先するなかで、教育上の価値、子どもたちの学びが、かなり後回しになっているのではないか?

 安全と教育と、両方を大事にする必要があることに関連する話を、熊本市の遠藤洋路教育長もしている。少し長くなるが、重要な指摘なので引用する(遠藤さんのFacebookの本日の投稿より)。

「教育を受ける権利」と「公共の福祉」は、どちらも日本国憲法の中に出てくる言葉です。憲法には、すべての国民は「教育を受ける権利」を持っていること、国民の権利は「公共の福祉」に反しない限り最大限尊重されること、が書いてあります。

学校教育(特に義務教育)は、「教育を受ける権利」を実現する重要な手段ですし、国民の生命・健康を守るというのは「公共の福祉」の最たるものです。

つまり、新型コロナウイルス対策のために学校を休校(臨時休業)にすることは、子供の「教育を受ける権利」を、全国民の利益となる「公共の福祉」のために制約するという意味をもっています。

「教育を受ける権利」も「公共の福祉」も、憲法上の重要な価値ですから、その重大な決定は、パフォーマンスで行うべきものでも、独断で行うべきものでも、また単に「学校に行かせるのが不安だから」という理由だけで行うべきものでもありません。公立学校の場合は、首長と教育委員会がよくよく相談して、慎重に議論して決定すべき問題です。

文科省のガイドラインで、臨時休業について「自治体の首長が地域全体の活動自粛を強化する一環として、学校の設置者に臨時休業を要請する」、「他の社会・経済活動の一律自粛と合わせて行うことにより、その効果が発現されるよう留意する」とされているのは、そのためです。決して、子供だけを犠牲にすることがあってはならない、「公共の福祉」を実現するための、社会全体の努力の一環として行うべきだ、ということです。

■学校の福祉の機能、役割も無視できない

 そして、3つ目が「福祉上の価値」だ。1か月前に急に休校が決まったときに、どんな話が多かっただろうか。「働いている保護者は、どうしたらいいんだ」、「小さい子を一人で留守番させておくのは不安」、「学校の給食が栄養の支えになっている子もいるのに」という話は、主には、学校の福祉的な機能に注目したことと言える。

 学校は、保育所でも、託児所でも、学童や児童館でもない。教育機関である。それは確かなのだが、この福祉の役割もとても大きかったことを再認識した人も多いのではないだろうか。言い換えれば、学校は、子どもたちが安心して過ごせる居場所でもある。

 しかも、保護者もストレスがたまりがちになったり、収入が激減した家庭などもあるなか、虐待や家庭内トラブルが増えないか、心配する声も多い。福祉上の価値も重視していかなくてはいけない。

 教育と福祉の価値の両方に関連するが、学校によっては、校庭を開放して、児童生徒が運動できる時間を設けた例があったのは、よかったと思う。また、感染予防が大事だからといって、子どもたちの居場所になりうる、公立図書館なども軒並み、一律に休館とすることには、疑問が残る。時間を区切って、たとえば、「この日の午前中は、小学校3年生までが過ごせます。Wi-FiにつながったPCも貸し出すので勉強してもOKです。」などとできないだろうか。

■もうひとつの価値もある

 話をややこしくしたいわけではないが、これら3つの価値以外にも、いくつかの価値が衝突するシーンは考えられる。

 たとえば、部活動はどうだろうか。学校再開に先駆けて、部活動を解禁した地域は多いようだし、私立学校などでは、休校中も部活動を実施していた例(”闇部活”?)も一部あると報道されている。部活動も感染リスクが高いのでは、とぼくは警戒しているが(「学校再開は学校丸投げ? 現場任せで懸念される、管理強化とゆるみ過ぎ問題」)。

 部活動でも、安全、教育、福祉という3つの価値が重要であることには変わりはない(中学生や高校生なので、福祉的な要素は小学生よりも弱くなってもいいだろうが)。子どもたちの安全が第一だが、部活動は、心身ともに成長する機会になる。

 だが、とりわけ部活動では、もうひとつの価値も重視されていると思う。図のとおり、ここでは、それを「自己実現」の価値と呼ぶことにしたい。

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※筆者作成

 部活動が過熱化しがちなのは、生徒の進路にも関わるからである。また、大会やコンクールは勝負事なので、やはり勝ちたいと思うのは、人情だ。これらは、教育上の価値の部分もあるが、自己実現として分類しておこう。部活動が勝利至上主義になっている、といった批判があるが、これは、教育上の価値よりも、この自己実現の価値のほうを優先させている、ということだ。

 それから、さらにややこしいことに、大会等でいい成績をおさめることは、顧問の教員やコーチ等の自己実現にもなっている部分もある。こうした結果、部活動は過熱化しやすい。

 ぼくがこの図を使って、伝えたいのは、3つなり、4つの価値が重なる、ともに実現できる余地もあるのだが、ともすれば、どこかを優先させると、どこかがかなりしんどくなる、ということだ。部活動の例では、自己実現(大会等で勝ちたい)を優先させるあまり、密集・密接するスポーツや音楽活動なのに、長時間にわたる練習を毎日行ったり、多少体調が悪くても、練習や試合は休めないという雰囲気になったりすると、安全や教育の価値が損なわれる事態になるだろう。

 説教じみた話をしたいわけではないが、未曽有の難局である。学校を再開するべきかどうか、部活動はこのままでいいのかどうかなどを考えるときには、

●こうした3つや4つの価値のどこを重視した話をしているのか

●別の価値で損なわれているものはないか

●そうだとしたら、どういう措置、施策を併せてとっておく必要があるのか

 などを多角的、複眼的に考えていくしかない。答えがすぐに見つかる話ではないし、情勢は変化するが、新学期は目前だ。限られた時間と人手、予算のなかではあるが、知恵を出し合っていくしかない。

◎妹尾の記事一覧

https://news.yahoo.co.jp/byline/senoomasatoshi/

教育研究家、一般社団法人ライフ&ワーク代表理事

徳島県出身。野村総合研究所を経て2016年から独立し、全国各地で学校、教育委員会向けの研修・講演、コンサルティングなどを手がけている。5人の子育て中。学校業務改善アドバイザー(文科省等より委嘱)、中央教育審議会「学校における働き方改革特別部会」委員、スポーツ庁、文化庁の部活動ガイドライン作成検討会議委員、文科省・校務の情報化の在り方に関する専門家会議委員等を歴任。主な著書に『変わる学校、変わらない学校』、『教師崩壊』、『教師と学校の失敗学:なぜ変化に対応できないのか』、『こうすれば、学校は変わる!「忙しいのは当たり前」への挑戦』、『学校をおもしろくする思考法』等。コンタクト、お気軽にどうぞ。

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