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『鬼滅の刃』アニメ遊郭編 強敵の鬼「妓夫太郎」とは何者だったのか

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:西村尚己/アフロ)

『鬼滅の刃』遊郭編の最終話は少し長かった

(『鬼滅の刃』のネタバレしています)。

アニメ『鬼滅の刃』の遊郭編が終わった。

最終話(遊郭編11話、通算44話)はいつもより少し長かった。

鬼の最期を丁寧に描いていたからだろう。

『鬼滅の刃』では、鬼滅隊に倒され、消滅しつつある鬼が、人間だったときの記憶を取り戻すことがある。

たとえば、珠代さんの邸で戦った「朱紗丸」は、消滅する間際に、幼い子供のように「ま…り…、遊…ぼ…」と呟いて消えていった。

また、那田蜘蛛山の累は、消え去る前に、本物の父と母が自分との絆を大事にしていてくれたことをおもいだす。

とても切ない瞬間である。

『鬼滅の刃』という作品に強く惹かれる部分でもある。

鬼の過去が明かされる理由

ただ、すべての鬼が、消滅するときに、その悲しい過去をおもいだすわけではない。

無限列車になりすましていた魘夢(えんむ)は、負けたことをただ悔やみ、炭治郎たちを恨みながら、崩れていった。

それぞれの鬼キャラクターには、もともとの細かい過去設定があるのだろう。

ただ、それが露わにされるのは、話の流れのなかで「語るに足るもの」である場合に限られているようだ。

猗窩座の最期が描かれるのは2024年か

鬼の最期のシーンで、強く胸に迫るのは、まず何といっても「猗窩座(あかざ)」ではないだろうか。上弦の参、つまり強い鬼ナンバー3である。

ただ、猗窩座の過去について語られるのは、まだずいぶん先である。

原作漫画で遊郭編の50話以上先、アニメになるのはよほど急いで2023年、おそらく2024年になるのではないだろうか。

猗窩座の過去だけで原作漫画3話と少しが費やされていた。おもいだしただけで泣きそうだ。当作の屈指の泣き所になるはずだ。

妓夫太郎と堕姫の兄妹は「羅生門河岸」育ち

それに次ぐ「印象深い鬼の前世」は、私にとっては、妓夫太郎と堕姫兄妹である。(人によってここは意見が違うとおもうが)

アニメ編44話は、この二人の「人間だったときの話」を丁寧に描いていたから、少し長くなっていたように見えた。

この兄妹は、吉原遊郭の最下層エリア「羅生門河岸」で生まれ育った。

吉原に少し詳しいと、馴染みの名称である。

ここを通るだけで身ぐるみ剥がされかねないような、そういう恐ろしいエリアであった、ようだ。

兄は、親にも望まれず、周りにも毛嫌いされ、それでも生き続けてきた子供である。

江戸の大スターになる可能性のあった妹

ただ、稀に見る美貌の妹が生まれてから、彼の人生は変わった。

妹はやがて、吉原の売れっ子になりそうな存在だったのだろう。

吉原で売れっ子になるということは、つまり江戸中に知られたスターになるということである。

妹はスターになれる可能性を秘めている。

彼はそう信じて生きていた。

妹が十三になるまでは。

十三のおり、お客の侍の目に簪を突き刺し(おそらく下卑た客だったのだろう)、妹は生きたまま焼かれる。

それを救うために兄は妹連れで鬼となった。

妓夫太郎もまた、妹のために生きている。

炭治郎と同じである。

妓夫太郎と炭治郎の同じ部分

妓夫太郎と妹は、身を寄せ合って、二人きりで生きていた。

互いに助け合う幼い兄と妹の姿は、その切ない懸命さが心を揺さぶる。

『鬼滅の刃』の魅力のひとつは、兄の炭治郎が、人外の存在となった妹をそれでも守り通そうとするその心意気にある。

妓夫太郎の行動も、それと同じだったのだ。

炭治郎は、そのことに気づいている。

自分たちも鬼の兄妹になった可能性を想像して、妓夫太郎たちを眺めていた。

「何回生まれ変わってもアタシはお兄ちゃんの妹になる!」

「妓夫太郎と堕姫」兄妹鬼は「炭治郎と禰豆子」の裏側の姿でもあったわけだ。

妓夫太郎たちは、たまたま道を踏み外してしまった。

鬼となっても兄と妹は協力しあっていた。

極悪非道な行いの連続ではあったが、でも、協力し、信頼しあう兄妹であるのは変わりない。

それは二人が首を落とされ、冥界の入口で明確になる。

妹の堕姫(本当の名前はお梅)はそこでも兄にまとわりつく。頼りにしている。

兄は、自分が守り切れなかったことを悔やみ、力不足にうちひしがれ、ここで別の道を行こうと言うが、妹はその背にしがみついて離れない。

兄も敢えて振り落としもしない。

幼いときから二人きりで生き続け、離れたことがなかった二人だったからだ。

最終話のタイトルは「何度生まれ変わっても」であった。

これは妹の堕姫(お梅)が「何回生まれ変わっても、アタシはお兄ちゃんの妹になる絶対!!」と兄の背で泣き叫ぶところから来ている。

妓夫太郎は人の名前ではない

兄の名前は妓夫太郎である。

「妓夫太郎」は人名に使う言葉ではない。

原作の漫画では説明があったが、アニメではその言葉の説明が飛ばされていたようにおもう。

「妓夫太郎」は、職種名である。

「運転手」「工員」というのと同じ言葉だ。

遊郭で働く男衆(おとこし)を指している。(男性従業員のことだがそう書くと雰囲気が違ってくるので、男衆と書く)

遊郭の主役は女性であるが、陰にまわって働いている男たちである。

現代でいえば、風俗店の、たとえば「キャバクラのボーイさん」のようなものだ。

「ボーイ」というと人の名のようだが、ただの職種を表しているように、「妓夫太郎」も妓楼で働いている男の使用人を指す職名である。

「ゆうべのギュウが、のこのこ馬になる」

妓夫太郎ギユウタロウという職名は、つづめてギュウとも呼ばれていた。

「ゆうべ格子で勧めたギュウが、今朝は、のこのこ馬になる」というセリフが、落語(おもに『付き馬』)で使われるが、これは「夜は客引きだった男衆が、翌朝には取り立てに行く」ということを面白がったセリフである。

「ギュウ(牛)が、馬になる」という言葉の面白みでもある。

金もないのに遊んだバカ者の家まで行って取り立ててくる役を「馬(付き馬)」と呼んだからである。

現代にも「ギュウ(妓夫)」はいる

いまでも歓楽街を歩くと「いい娘いますよ」と陽気な声を掛けてくる男衆はいる。

彼らは陽気そうだけれど、芯から陽気なわけはなくて、何かトラブルがあったらコワモテになって凄みそうな雰囲気満々である。

歌舞伎町でも池袋でも(いろんなところに)その手のお兄さんがいっぱいいる。

それが「ギュウ(妓夫)」である。

歓楽街では、昔も今も、きれいなお姉さんとともに「底知れぬ暴力性」が漂っている。

政府公認の遊郭であった吉原には、公然とした「暴力」が存在していた。

『鬼滅の刃』の妓夫太郎は、人間のときから、その暴力の化身のような存在だったのだ。

人としての名がなかった妓夫太郎

彼が「妓夫太郎」と呼ばれていたということは、つまり、ちゃんとした名前がない、ということである。

いまで言うなら、本名が「とりたてや(取り立て屋)」とか、「ぼういさん(ボーイさん)」だったということだ。呼び名ではない。本名が、である。

つまり、人としての名がないのだ。

そう命名されたとしても、途中からそう呼ばれたとしても、それは人の名ではない。

この名前自体にとてつもない悲哀が込められている。

人がましい存在ではなかった。人外におかれていたということが示唆されている。そこを想像すると、少し胸を突かれる。

妹も、人間のときの名前は「お梅」だったらしい。

母の病気から取られたと言っていたから、どう考えても性病の“梅毒”のことだろう。

兄妹とも、人のときから悲しい場所にいたのだ。

「いいほうへ加速してまわっていく人生」

弱者だった二人は、いつもタッグを組んで、やがて強くなっていった。

妹の美貌が増すことによって、醜い兄は自分の仕事にも手応えを感じるようになり、やがて微かに希望を抱く。

「これからおれたちの人生はいいほうへ加速してまわっていくような気がしていた」

この妓夫太郎の言葉に、この兄妹の絆の強さが表れている。

また哀切さも込められている。

呪われたような名前を背負っていた二人は、そういう名でしか呼ばなかった世間に楯突いて生きていた。

あまりに楯突くので、反撃され、殺されかけて、鬼となった。

吉原で人を喰らい続け、しかし炭治郎らに見つけられて、やられてしまった。

妓夫太郎兄妹の最期を見守っていた炭治郎兄妹

首だけになっても喋り続ける鬼の兄妹を、最期まで見守っていたのが炭治郎と禰豆子だった。

灰となって舞い上がったあと、あの兄妹は仲直りしただろうかと炭治郎は問いかけ、禰豆子は力づよくうなずいていた。

そこがいつまでも心に残る。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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