シックスペンスと共にダービーに挑む男が、亡き母に届けたい思いとは?
1人のホースマンとの出会い
「第一印象は“可愛い男の子”という感じでした」
シックスペンスを初めて見た時の事を、そう述懐したのは熊谷博。1969年12月生まれの彼は、国枝栄厩舎の厩務員だ。
神奈川県茅ヶ崎市で競馬とは無縁の家庭で育てられたが、青山学院大学在学中に出来た友達の影響を受け、競馬を見るようになった。アイネスフウジンやメジロライアンの時代で「オグリキャップのラストランとなった有馬記念(90年)は現地で観戦した」と言う。
92年、大学卒業後、ヤマハに就職したが、競馬は見続けていた。そこで1人のホースマンに手紙を書いた。
「『先生のようになりたい』と気持ちを書きました」
会った事もない相手だったが、返事が来た。
「それが藤沢和雄調教師(当時、引退)との出会いでした」
これを境に熊谷の人生が大きく変わった。
「藤沢先生に牧場を紹介してもらえるよう、動いていただきました。両親からは『何のために大学まで行かしたの?』と、反対されたけど、せっかくのチャンスなので、競馬の世界に飛び込みました」
美浦近隣の育成牧場でアルバイトをした後、正式に会社を辞めて、北海道の育成牧場であるファンタストクラブに就職。97年に競馬学校に入学し、翌98年からは美浦トレセン入り。2013年には国枝栄厩舎へ転厩して、現在に至っている。
「優秀な厩舎なので、厩務員仲間の皆も続々重賞を勝ったけど、自分はなかなか縁がありませんでした」
14年に担当したダノンプラチナは新馬戦で2着に好走すると、続く未勝利戦を勝ち上がった。しかし……。
「その後、扱いの上手い子に担当が代わってから、GⅠの朝日杯フューチュリティSを勝ちました」
悔しい思いもあったのでは?と思いきや、かぶりを振って口を開いた。
「ディープインパクトの仔でうるさい面がある馬だったので、自分が担当のままで同じように勝てたかは分かりません」
翌15年にはフロンテアクイーンとの出合いが待っていた。一度担当を外れたが、再び戻って来ると未勝利戦を2、1着。
「乗っていた蛯名(正義)騎手(現調教師)が素質を見抜いてくれて、重賞に挑戦しました」
するとクイーンC(GⅢ)を2着。お陰で後にオークス(GⅠ)に駒を進める事が出来た。
そんな時、GⅠに挑戦出来る嬉しい気持ちに、暗雲が漂う報せが届いた。
「母が倒れて入院しました」
当初、競馬界入りを反対した母だったが、『観ていてほしい』という気持ちで樫の女王決定戦に臨んだ。結果、勝つ事は出来なかったが6着と好走。12番人気の評価を考えれば、立派な成績だった。
「母は病床から応援してくれていたと思います。ただ、それから2ヵ月もしないうちに、息を引き取ってしまいました」
その後、重賞戦線で再三好走をしながらも先頭でゴールを駆け抜ける事はなかったフロンテアクイーンに、ついにその時が訪れたのは19年になってから。5番人気だった中山牝馬S(GⅢ)を見事に優勝してみせたのだ。
「ゴール前で外から他の馬が来たので、また負けたと思いました。自分にとっても初めての重賞制覇だったけど、それよりもフロンテアクイーンに勝たせてあげられた事が本当に嬉しかったです」
母の墓前に報告をし、更に誓った事があった。
「同じ頃、厩舎にアーモンドアイがいました」
牝馬三冠を含め、史上初めてJRAの平地GⅠを9勝した名牝の名を挙げ、続けた。
「GⅠを勝った数だけ、ゼッケンに★印が付くので彼女のゼッケンは★だらけでした。フロンテアクイーンにもせめて1つは付けさせてあげられるように頑張ると、報告しました」
しかし、残念ながらその誓いはかなえられなかった。その後、ヴィクトリアマイル(GⅠ)やエリザベス女王杯(GⅠ)に挑んだフロンテアクイーンだが、先頭でゴールする事なく、ターフを去った。
亡き母に届けたい願い
それから4年近くが経った昨年、ついに亡き母に誓った願いが現実味を帯びる馬と出合えた。冒頭で紹介したシックスペンスだ。
「可愛い男の子」と感じたこの馬は、23年9月にデビューすると「意外とモタモタしながらも勝利」(熊谷)。2戦目のひいらぎ賞も連勝した。
「元々歩様が良くないので、ウッドチップコースではやらず、坂路だけの調教でした。体重も大幅に増えていた(プラス12キロ増の496キロ)ので、それらがどう出るか不安もあったけど、終わってみればしっかり勝ってくれました」
こうして迎えた3戦目が、スプリングS(GⅡ)だった。
「クラシックを目指すならここで勝たないと、という気持ちでスタッフと相談しながら臨みました」
結果「強風も気にせず、優勝」(熊谷)した。
これで皐月賞(GⅠ)の出走権を獲得したが、行使せず、次なる目標は今週末の日本ダービー(GⅠ)に絞られた。熊谷は言う。
「東京を使った事がないのだけは気掛かりです。でも、皐月賞だと中3週になるので、テンションや脚元の事を考えると、間を開けたのはむしろ良かったと思います」
また、ダービーそのものに対する思いを聞くと、次のように答えた。
「最初に好きになったメジロライアンが2着で、以来、毎年、注目はしています。ただ、実際にダービー当日の競馬場へ行った事はないので、そういう意味でも今年は楽しみです」
亡きお母さまも、きっと空の上から見守ってくれている事だろう。
「最初は競馬界入りを反対した母ですが、その後、人伝に応援してくれていた事を聞きました。その母のお墓は茅ヶ崎にあるのですが、実はスプリングSを勝つ前に行ったきりで、その後、行けていません。ダービーの後にはお墓参りをしなくては……と考えています」
ダービーという大舞台で、★印の付くゼッケンを獲得し、墓前に報告する。それが現在の熊谷の唯一にして、最大の願いである。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)