あの朝、何が起きたのか⁈ オーサムリザルトBC取り消しの真相を関係者が語る
決戦3日前の出来事
現地時間10月30日。武豊騎手に誘っていただき、米国デルマーの市内のレストランで食事をした。その際、一緒にメキシコ料理に舌鼓を打ったのが、池江泰寿厩舎のスタッフ2名。3日後に行われるブリーダーズCディスタフ(G I)に挑むオーサムリザルトの関係者が集結したわけだ。
スタッフの1人は塩津有也。1984年生まれで現在40歳。遡る事9年、2015年にタップザットが遠征したドバイで、彼と食事の席を共にした。もっとも、失礼な事にそう告げられるまで失念していたのだが、彼の表情に終始浮かぶ笑みを見て、記憶が蘇った。
「オーサムリザルトは怖いくらい全て順調に来ています」
笑顔の理由をそう語ったが、9年前を思い起こすに、その朗らかな表情は彼の性格から来るのだろうとも感じたものだ。
「うちの厩舎はパドックで曳く際は厩舎服でも構わない規則なのですが、僕の担当馬に初めて豊さんに乗ってもらった時は、あえてスーツを着ていきました」
「幼い頃は騎手を目指した事もある」と言う塩津は、憧れのレジェンドを目の前にして、そんな逸話を口にした。
そうこうするうち、現地の目ざとい競馬ファンがユタカタケに気付き、声をかけて来た。1人が去り、暫くすると別の2人組が「一緒に写真を撮ってほしい」と言ってきた。米国の街中のレストランで次から次へと声をかけられる日本人騎手が他にいるだろうか。
そんな光景を見て「一緒に口取りをしたい」と切に願ったのが、もう1人の調教助手・兼武弘。1983年生まれで41歳だから塩津とほぼ同世代。彼は言った。
「豊さんはテレビの向こう側の人という感じ。一緒にブリーダーズCに臨めて、ましてこうして食事に誘っていただけるなんて信じられない話です」
この時、レストランにあるテレビ画面には大谷翔平選手が出場するドジャース対ヤンキースのワールドシリーズが映されていた。王手をかけたドジャースがリードして終盤を迎えた試合を見て、兼武と塩津がどちらからともなく「豊さんと一緒にこんな場面(ドジャース優勝)を見られるなんて、最高の思い出になります!」と言うと、武豊は苦笑しながら、答えた。
「いやいや、ブリーダーズCが最高の思い出になるような結果にしましょう」
その場にいた誰もがその言葉に頷き、実際そう出来るものだと信じていた。僅か3日後に、思いもしない結末が待っているとは、誰一人、考えてもいなかった。
当日、朝の検査
オーサムリザルトが決戦の地である米国に到着したのは現地時間10月22日。池江厩舎の2人はそれより前に現地入りして、7戦無敗の彼女を出迎えた。それから2週間弱。アクシデントに見舞われる事なく、且つしっかり走れる状態に仕上げられるよう、2人は毎日プレッシャーと戦った。
「かなりの頻度で歩様検査がありました。オーサムは元々独特の歩様をする馬なので、引っ掛からないか心配でした」
そう語る塩津は、ただ心配をするだけではなく、しっかりと手を打っていた。
「『普段からこうですよ』と証明するために日本での歩様を動画に撮って持参していました」
「ほぼ毎日のようにパドックや装鞍所をスクーリングして慣らしました。時にポニーを付けたり、ゲート練習ではゲートボーイを付けたり、と万全を期して準備しました」
そう語ったのは兼武。局面に合わせ2人で相談しながら正解を探し、11月2日、決戦当日の朝を迎えた。
「レース当日なので馬場には出さなかったけど、曳き運動はしました。普段通り、何も変わった事はありませんでした」
兼武はそう言い「何とか無事に競馬を迎えられそうと感じた」と、続けた。
一方、塩津も同じ思いでいた。
「前日にあったレントゲン検査もパスしたと思っていたし、この朝もいつも通りだったので、後は最後の歩様検査をパスして競馬へ行けるものだと考えていました」
出走予定の全頭に課せられた最後の歩様検査。オーサムリザルトの番になると塩津には「おや?」と思う事があった。
「それまで何度も検査に来ていたのとは違う獣医が来ました」
聞くと前日まではブリーダーズC協会に委託された世界各国からランダムに集められた獣医が行うが、当日の全頭チェックはカリフォルニア州の獣医師に委ねられるとの事だった。
18〜19年にかけてサンタアニタで事故が多発した際、動物愛護団体が目を光らせるようになった。それを受けてカリフォルニア州での注目度の高いレースに関しては、州の獣医師により厳格な調査が行われるようになっていたのだ。
これには指揮官の池江泰寿がその時の心境を吐露する。
「当日はそれまでと違う獣医師が来る事は事前に知らされていたし、どの馬も同様だったのでそれ自体に問題はありませんでした。ただ、オーサムの場合、独特の歩様で、左前に軟腫があったのも事実なので、見慣れていない人が来る事に一抹の不安はありました」
脚元を含めた全身の触診に続いて歩様検査が行われた。ここで馬房に戻して良いと許可された。
「何とか無事に終わったかな?」と胸を撫で下ろした兼武。しかし……。
「他の馬達は皆、このあたりでOKが出ていたのに、オーサムはなかなかゴーサインを出してもらえませんでした」
くだされた思わぬ決断
すると「もう1度、歩様を見させて」とリクエストされた。オーサムリザルトを再度、馬房から出しながら、兼武はいぶかしく感じた。
「執拗にチェックされて、嫌な雰囲気になりました」
「今度は『左右両回り、ダク(速歩)で円を描くように曳いてください』と言われました」
そう回顧するのは塩津だ。左回りは普通に回った。続いて右回りで回した。その時の様子を兼武が振り返る。
「長い検査でイレ込み気味になっていたし、右に回す事は普段しないので、少しバタバタして上手に回れませんでした」
池江が擁護する。
「世界中どこへ行っても曳き手が馬の左側に立つのが共通認識です。自然、右回りはぎこちなくなるし、馬も慣れていないのでうまく出来なくても何らおかしい事ではありません。ましてダクで、というのは聞いた事がありません」
競馬場のパドックが一部の珍しい所を除けば殆ど左回りなのも、単にファンから見て曳き手が馬の手前に来て邪魔になるから、という理由だけではないのだ。
獣医や通訳、指揮官の池江が話している様子を見て、兼武の眉間に自然と皺が寄った。
「ものの何分かだったかもしれませんが、凄く長く感じました」
そして、次の刹那、獣医から思わぬ決断がくだされた。
『出走させるわけにはいかない』
違和感
理由は「左前の球節に熱感があるから」と聞かされ「頭の中が真っ白になった」と言うのが兼武だ。
「ここまで積み上げて来たモノが一瞬にして終了したと思うと悔しくて悔しくて……。池江先生からは『仕方ない』と声をかけられたけど、ショックを受けている僕を気遣ってそう言われたのだと思います。先生も納得は出来なかったはずだし、自分としては無力さを感じました」
塩津はその瞬間を次のように振り返った。
「ずっとこの状態でやって来て、当日も変わりなかったのに『何故⁈』という気持ちになり、後は何も考えられなくなりました」
百里の道も九十九里をもって半ばとす、ではないが、長い道程を重圧と戦って、後は手を伸ばせば届くところまでに目標が近づいたと思えたところでの卓袱台返し。まさかの幕引きに2人は言葉を失った。
池江が述懐する。
「左前の球節に熱感があると言われたわけですが、1回目の触診をした時ではなく、2回目の歩様検査をしてから言われたのには違和感がありました」
馬房に戻す前の触診で言われるか、再度出した後にも触診をして言われるなら百歩譲って理解出来た。しかし、どちらでもなかった。1回目に触診した時には何も言われず、2回目の歩様検査の時には触診がなかった。それなのに熱感があると言われるのは「胃カメラを飲んで肺に影があると言われるようなモノ」と、池江は到底納得が出来なかった。
しかしどう説明しても「熱がある」の一辺倒だった。最終的に受け入れるしかなく、承諾した。その際、渡された書類を見て『はっ⁈』と思った。
「取り消し理由に『Injury(怪我)』と記されていました」
違和感はますます大きくなった。それでもその感情を堪え、ブリーダーズC協会の面々に「お世話になりました」と挨拶をした。
「それから兼武に『後は任せる』と告げると、彼が堰を切ったように泣き出しました。どれだけ辛かったかと思うと、こちらも胸が張り裂ける思いでした」
溢れ出た涙
突然、競馬がなくなったため兼武と塩津の2人は呆然としたまま一旦ホテルへ引き上げた。そして、午後作業のために再び競馬場へ向かう車の中で、本来ならオーサムリザルトが出走していたはずのBCディスタフがスタートを切った。
「走らせてあげたかった……」
兼武はそう思いながらモバイルの画面越しにレースを観戦。最後に抜け出したソーピードアンナの勇姿にオーサムリザルトの幻を重ね、目に焼き付けた。
同じく悔しい思いを胸に宿していた塩津だが、態度は真逆だった。
「本当ならここに走っていたのだと思うと、レースを見る事が出来ませんでした」
画面には一切目をくれず、車窓の外に気を向けた。
その後、午後作業を終えた塩津がスタンドへ行くと、偶然松島正昭オーナー(名義はインゼルレーシング)に会った。
「オーナーはこちらに対して全く責める事なく、逆に前向きな激励の言葉をかけてくださいました」
さらに通訳ら関係者にバッタリ会うと、思う事があった。
「オーナーや会員の皆さん、武豊騎手や池江先生ら関係者の方に改めて申し訳ないと思いました。また、僕は牧場で働いた事もあるのですが、1頭の馬の背景には生産や育成に携わる人も沢山いるし、何よりも海外という慣れない場所に連れて来られて健気に頑張っていたオーサムリザルト自身にも申し訳なく感じました」
そう思うとそれまで我慢していた感情が爆発し、涙がとめどなく溢れた。
「スタンドで周囲に大勢の人がいたけど、自分でも止める事が出来ず、人目も憚らず号泣してしまいました」
既に帰国している塩津に、再度当時の話を伺うと……。
「多くの人が楽しみにしてくれていたのに、バトンを受け取った僕が最後の豊さんにうまく繋ぐ事が出来ず、本当に申し訳なく思いました」
普段は笑顔が印象的な塩津だが、そう答える彼の目には、再び光るモノがあった。
「池江先生からも『すまなかったね』と謝られたけど、謝らなくてはいけないのは僕の方です」
そう続けたが、今回の取材をするにあたって、池江からはこう言われていた。
「兼武も塩津も自分達を責めると思います。けれど、それは全く違います。彼等は一所懸命にやってくれたし、何も悪くありません。それどころかこんなに辛い思いをさせてしまい、彼等には申し訳なく思っています」
これからすべきこと
万全を期しても、また、誰一人悪くなくても思うような結果に辿り着けない現実の縮図が、競馬なのかもしれない。今回は残念な結果に終わってしまったが、命がどうこうという最悪な事態ではなかったのが、せめてもの救いである。兼武は言う。
「僕自身、馬について海外に挑戦するのは初めてでしたけど、いきなり最大級の落とし穴にハマってしまったという気持ちです。でも、今となってはオーサムのためにもこの経験を次に活かすしかないと考えています」
塩津もこの意見に首肯して、言う。
「2度とこんな思いをしないためにも、この経験を次回以降に活かさなければいけないと思っています」
オーサムリザルトと共に彼等が次に流す涙は、嬉し涙となる事と、信じたい。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)