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オークス、ダービーに有力馬を送り込む国枝栄調教師と、共に戦う2人の子息の物語

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
オークスに出走するステレンボッシュ(左)とダービー出走のシックスペンス

それぞれの道を歩んだ兄と弟

 1985年1月、純は長男として埼玉県で生まれた。幼少時はサッカーや陸上に興じたが、心の中でいつも考えていた事があった。
 「将来は馬の仕事に就きたいと思っていたので、中学で乗馬を始めました」
 88年9月、茨城に生まれたのが三男の翔だ。幼い頃から乗馬をやったがこちらは今一つ馴染めなかった。
 「決して運動神経が良い方ではなかったし、それよりも好きな音楽にハマりました」
 2人は同じ父の下に生まれ、育てられたが、別々の人生を歩んだ。父の名は国枝栄。美浦で開業するJRAの調教師だった。

長男の国枝純調教厩務員(左)と三男の翔調教助手
長男の国枝純調教厩務員(左)と三男の翔調教助手


 99年12月19日の事だった。この日、中学生の純は中山競馬場にいた。
 「スプリンターズSを観戦しに行くと、父のブラックホークが見事に差し切って勝ちました。父の喜ぶ姿を見て、改めて自分もこの世界に入りたいと思いました」
 そして、まずはジョッキーを目指した。
 「中学卒業時に競馬学校の騎手課程を受験しました。一次は突破したけど、二次で落ちました」
 そこで高校に進学。高校卒業後はノーザンファーム空港牧場に就職した。ここで本格的な馬乗りの“いろは”を教わると、2005年にはミッドウェーファームへ移籍した。
 「技術をもっと上げたいと思い、より多くの馬に乗れる牧場へ移動しました」


 その頃、翔は音楽の世界に傾倒していった。高校を卒業すると、音楽の専門学校に入学した。しかし……。
 「専門学校に入ると、周囲の生徒は皆、音楽の英才教育を受けて来たような子ばかりで、少し気圧されました」
 そんな07年12月23日の話だ。翔は父に連れられて中山競馬場へ行った。
 「有馬記念を父のマツリダゴッホが制しました。父が楽しそうに仕事をしているのを見て、自分もそうなりたいと思いました」

2007年の有馬記念を制したマツリダゴッホ。このレースが翔の人生を大きく変えた
2007年の有馬記念を制したマツリダゴッホ。このレースが翔の人生を大きく変えた


 人生の転轍機がガチャリと音を立てた瞬間だった。すぐに音楽の学校を辞めると、72キロあった体重を57キロまで絞り、千葉県にあるジョイナスファームの門を叩いた。
 「馬の経験がまるでなかったので、寝藁上げからやりました。毎日何度も落とされながら馬乗りを覚えました」

共に父の下に

 純はミッドウェーで3年間、働いた後、競馬学校に入学。09年から美浦トレセンに入ると、まずは斉藤誠厩舎で一時的に雇ってもらった後、池上昌弘厩舎で正式に働く事になった。
 「池上先生には飼料や矯正馬具の使用法といった基本的な事から全て教えていただきました。こちらの意見も聞いてくださる先生で、とても働きやすかったです」
 しかし、そんな厩舎を11年の夏には飛び出した。その理由を次のように語る。
 「この世界に入った時から、いずれは父の手助けをしたいと考えていました。だから池上先生にわがままを聞いていただき、国枝厩舎へ転厩させてもらいました」

国枝厩舎に移って間もない頃の純
国枝厩舎に移って間もない頃の純


 一方、翔は13年に牧場を辞めて競馬学校に入学した。卒業後は自主的にフランスで研修をした後、9月から美浦トレセン入り。勢司和浩厩舎でキャリアをスタートした。
 「勢司先生は、技術も知識もまだまだの自分に色々と教えてくださいました」
 しかし、19年1月1日からは純同様、父の厩舎へと移った。
 「楽しく働く父の下で働きたいという気持ちは常にありました。奥村(武)調教師が国枝厩舎を出る時に転厩の話があったのですが、勢司先生に何の恩返しも出来ていなかったので、一度断りました。その後、宮田(敬介)先生が調教師に受かったタイミングで、移らせてもらう事にしました」
 こうして19年から、純と翔の兄弟は父の下でついに一緒に働く事になった。

13年、トレセン入りする前にフランスで修業した翔
13年、トレセン入りする前にフランスで修業した翔

2人の共通した願い

 調教厩務員としてサトノフラッグやサトノレイナスを担当した純。
 いつも楽しそうに働きながらも、唇を噛む父の姿にも幾度となく立ち会った。
 「レースに使うか、回避するかで、かなり悩んでいる事がよくあります。そういう時は、本人としては使いたくないようなので、それを後押し出来るような助言をする事はあります」
 翔もまた、父の苦しむ姿を目の当たりにした事があると言う。
 「良い馬を預けてもらっているのに、思うように走らせられない時は『しょうがないなぁ……』と言いつつも、ガックリしている事があります。そういう時は父の力になってあげられなかったと申し訳なく思います」

純が担当したサトノフラッグは弥生賞を制したがダービーは11着に敗れた
純が担当したサトノフラッグは弥生賞を制したがダービーは11着に敗れた


 そんな2人には、思うところがある。
 純が言う。
 「2歳馬が入る度に『お、この馬はダービー馬になれるな』等と必ず言っていますからね。定年の関係でダービーに挑めるのも今年と来年だけなので、何とか勝たせてあげたいという気持ちはあります」
 翔も首肯して続ける。
 「ダービーとなると、少々無理をさせなくてはいけない事もあるはずです。そういうのが父のやり方には合わなくて、ここまでは勝てなかったのかと思います。ただ、あと2年しかないし、何とかサポートして、勝たせてあげたいという気持ちはあります」
 そんな国枝厩舎から今年のオークスには桜花賞馬のステレンボッシュ、ダービーにはサトノエピックとシックスペンスの2頭を送り込む。いずれもチャンスのある馬だ。2人の息子は最高の親孝行を出来るだろうか。今週末、来週末と、府中の2400メートルに刮目したい。

国枝栄調教師を挟んで純(左)と翔
国枝栄調教師を挟んで純(左)と翔

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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