伊賀越えを機に家康に仕えた甲賀武士とその子孫
「どうする家康」で、伊賀越えに挑んだ家康を迎えた信楽小川城(滋賀県甲賀市信楽町)城主の多羅尾光俊。ドラマではその歓待ぶりを疑った家康一行が城を抜け出したが、実際には多羅尾光俊は家康の伊賀越えを援けた甲賀の国衆として知られている。
多羅尾氏の他にも伊賀越えを援けた甲賀武士は多く、その子孫は江戸時代に旗本となった家も多い。
甲賀武士、多羅尾氏
ドラマ中で甲賀武士を代表して唯一取り上げられた多羅尾氏は近江国甲賀郡の国衆で、信楽の小川城主であった。
多羅尾氏は藤原北家の出で代々甲賀郡信楽荘多羅尾(現在の甲賀市信楽町多羅尾)に住み、嘉元元年(1303)師俊が多羅尾氏を称したのが祖である。
『寛政重修諸家譜』には伊賀越えについても詳しく記されている。戦国時代、光俊の時に織田信長に従い、その五男光広は宇治田原城(京都府宇治田原町)城主山口長政の婿養子となっていた。この山口光広が、家康の堺遊覧に同行していた信長の家臣長谷川秀一と面識があったことから、家康一行を実父多羅尾光俊の所領である信楽に案内した。
光俊は小川城に家康一行を迎え入れると、三男光雅と五男光広に甲賀衆150人と従者50人をつけて、一行を伊勢白子まで送り届けている。
光俊はその後豊臣秀吉に仕えたが、豊臣秀次に属していたことから、文禄4年(1595)秀次に連座して信楽に蟄居した。しかし、慶長元年(1596)に光俊の長男光太が徳川家康に召し出され、江戸時代は旗本となっている。
美濃部氏のルーツと子孫
甲賀には多羅尾氏の他にも多くの在地武士がいた。その中で、伊賀越えを援けて後に旗本となった家に美濃部氏がある。
『寛政重修諸家譜』によると、美濃部氏は菅原姓で道真の子兼茂の末裔と伝える。室町時代から甲賀郡蔵田荘美濃部郷(現在の甲賀市水口町)を支配する武士として台頭した。戦国時代は六角氏に従い、茂濃(しげあつ)の時に織田信長に仕えて近江国甲賀郡に住んだ。
本能寺の変後、茂濃は一族を率いて信楽から伊勢白子まで徳川家康の伊賀越えに従い、慶長4年(1599)子茂益が徳川家康に仕え江戸時代は旗本となっている。
さて、美濃部氏からは後に有名な人物が誕生した。
明治維新後、旗本美濃部家の当主戍行(もりゆき)は没落し、警視庁の巡査をしていた。その五男孝蔵は幼い子から父に連れられて寄席通いをし、様々な職を転々としたあと落語家となった。のちに戦後を代表する落語家となる5代目古今亭志ん生である。
5代目志ん生の長男が10代目金原亭馬生、次男が3代目古今亭志ん朝で、馬生の娘が俳優池波志乃である。