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「桶狭間」はどこで、信長はなぜ義元を討てたのか

石田雅彦科学ジャーナリスト
愛知県豊明市にある桶狭間古戦場伝説地の史跡:写真撮影筆者

 大河ドラマにも出てきた桶狭間の戦いだが、今川義元はいったいどこで織田信長の兵に討たれたのか、場所はまだ特定されておらず、なぜ信長が勝てたのかも謎のままだ。桶狭間はいったいどこだったのか、なぜ義元は討たれてしまったのか、史料研究などから読み解く。

伊勢湾の制海権をめぐる戦い

 1560(永禄3)年5月、桶狭間の戦いが起きた。この一戦によって、大げさに言えば日本史がまさに大逆転した。政治軍事的均衡が突如として崩壊し、あらゆる局面に影響が出た、という意味では本能寺の変に勝るとも劣らない。

 とはいえ、実は桶狭間の戦いを実際に起きた合戦として証拠立てる史料は少ない。今川氏や織田氏の当事者が出した安堵状のような文書があるが、永禄3年5月20日以降、今川氏側では差し出し元が今川義元から氏真に代わり、その一部に「尾州にて於いて一戦の砌」などという文言がみられる程度である。桶狭間の戦いについては『信長公記』など、合戦に参加したと主張する者や後世の記録者が第三者的に書いた、いわば傍証を積み重ねて分析しているに過ぎない。

 以下は、これまでに積み重ねられてきた傍証から演繹したものになるが、とりあえず桶狭間の戦いにいたる背景をざっと俯瞰してみよう。

 遠江国を配下に組み入れた今川義元は、天文23(1554)年に甲斐国の武田氏、相模国の後北条氏と甲相駿三国同盟を結ぶ。後背の憂いをなくした後、三河国の安定化に励んだ。三河西部を抑えていた国人領主、松平氏の勢力が低下し、東部を含めた三河国ではほぼ全域で今川氏による領国化が進められていたのである。

 天文20(1551)年、織田氏の当主、信秀が死んだため、嫡男の信長と弟の信勝との間で家督争いが生じ、尾張国は混乱する。その動揺をついた今川義元は、尾張領内へ進出し、鳴海(なるみ)城と笠寺城(砦)を守る山口氏を今川方に投降させ、その山口氏が寝返らせた大高(おおだか)城や沓掛(くつかけ)城をも手に入れることに成功する。

 その後、家督争いに勝利した織田信長が尾張国の国内平定を進め、三河国との国境地帯に対する今川方の勢力を押し戻そうとする。今川方となった鳴海、笠寺、大高、沓掛の4城は、織田氏の拠点である清洲と知多半島を分断する位置にあり、伊勢湾に突き出した知多半島を抑えられると伊勢湾の制海権が脅かされることとなる。

 尾張国でかつて守護大名の斯波氏がいたが、その権威はほとんどなくなり、代わって清洲三奉行の一つ、織田弾正忠家(だんじょうのちゅうけ)が伊勢湾の交易から得る経済力を背景に力をつけてきた。つまり、4城を放置しておけば、織田氏が持っている伊勢湾の海運による経済力を失いかねない事態となる。そのため、尾張国東部と三河国西部の、今川氏と織田氏の勢力が入り交じっていた地域で小競り合いが続いていた。

 ちなみに、今川義元の軍師として八面六臂の活躍をした太原雪斎(たいげんせっさい)は、すでに弘治元(1555)年閏10月10日に死んでいる。彼が生きていれば、織田信長が尾張国をまとめる前に何らかの手を打っていたかもしれないが、ようするに桶狭間の戦いは伊勢湾の経済的な制海権をめぐる戦いだったといえる。

 いずれにせよ、織田信長は今川氏の進出に対し動いた。知多領主の水野氏を味方へ引き込み、今川方の村木砦を攻め落とし、一度は今川方に落とされた笠寺城を奪還する。また、鳴海、大高、沓掛などの諸城の周辺に押さえとして善照寺(ぜんしょうじ)砦、中嶋砦、丸根(まるね)砦、鷲津(わしづ)砦などを構築し、今川方が相互に有機的な連絡ができないようにしたのである。

 織田信長の最終的な尾張国平定と同時に、尾張東部国境地帯における緊張が高まった。信長の伸張ぶりが今川義元の焦りを呼んだ可能性もあるが、永禄3(1560)年5月12日、義元は2万5000とも言われる大軍団を引き連れ、駿府を出発して三河へ向かったのである。

信長の綿密な情報収集と諜報活動

 今川義元の本隊所属には、松井宗信(むねのぶ、二俣城主)や飯尾垂連(のりつら、曳馬城主)、蒲原氏、由比氏、久野氏、庵原氏らがいた。従来、今川義元のこの西進は、上洛を意図していた、というのが定説だった。しかし現在では、尾張三河国境地帯から織田勢力を駆逐するための示威行動、もしくは鳴海城や大高城などに対して織田方が築いた押さえの付け城や砦の除去、せいぜい尾張国での織田勢力の駆逐漸減程度が目的だった、という説が有力である。

桶狭間の古戦場伝説地の近くにある鷺塚の由来碑。織田信長が戦勝を祈願した時、熱田神宮の社殿から白鷺が飛び立ち、今川義元が休んでいた場所に近い小高い丘に降り立った奇瑞によって奇襲が成功したという。写真撮影筆者
桶狭間の古戦場伝説地の近くにある鷺塚の由来碑。織田信長が戦勝を祈願した時、熱田神宮の社殿から白鷺が飛び立ち、今川義元が休んでいた場所に近い小高い丘に降り立った奇瑞によって奇襲が成功したという。写真撮影筆者

 また、今川方の兵力2万5000にしても、輜重雑兵などの順兵力がほとんどで、戦闘力の中心である武士の数は多くても5000人程度だったと考えられている。今川方は、鷲津砦の攻略に有力家臣の朝比奈泰朝を差し向け、丸根砦には松平元康(徳川家康)、鳴海城には岡部元信、大高城には鵜殿長照をあてるなど、兵力の分散が目立つ。おそらく、今川義元本隊の兵力は、3000かもっと少なかった可能性が高い。

 一方の織田信長は、戦闘力のある家臣団を集中的に運用し、武士の数は約2000程度であるが、戦闘兵力としてはかろうじて今川方に拮抗する。また、信長は地元の利を生かし、地形や気象変化などについて今川方よりも詳しかった。

 また、沓掛の梁田氏という土豪を敵方探索のために組織化して使い、今川方の動きを察知していた、という説もある。この梁田氏は、桶狭間の戦い後に信長の家臣や与力の中で最大の恩賞を授けられているが、それと桶狭間の戦いの功績との因果関係は不明である。

 さらに桶狭間の戦い後、柳田政綱という人物に褒美が与えられているが、彼の今川義元の動向に関する諜報活動を織田信長が高く評価したからという説もある(※1)。つまり、織田信長は、綿密な情報収集と諜報活動をした後に桶狭間の戦いに臨んだ。

 兵をまとめて善照寺砦から出た信長は、大将の今川義元一人を討ち取るため、今川方の本隊が位置する桶狭間へ向かった。この経路も定説では山側を迂回した、といわれてきたが、東海道を直線的に進んで今川方の正面から全軍突撃したようだ。おりから桶狭間の上空には積乱雲が発達し、雹か霰混じりの激しい豪雨となる。

 このとき今川義元は、桶狭間で兵を休ませていたらしい。当初の戦術的目的である大高城周辺の織田方付け砦は続々と落城し、討ち取った織田方諸将の首が実検のために義元のもとへ届けられつつあった。この楽勝ともいえる戦勝のために織田信長を侮り、昼時であったこともあり、油断した義元が兵を休ませていた、という。

兵力差はそれほどなかった?

 そうした状況を把握していたかどうか、信長の主力が沛然と降る雷雨の中(一説では雨がやんだ後)、一軍、槍のようになって桶狭間へ殺到した。様々な偶然が重なり合い、こうして典型的な奇襲攻撃が実現した。『信長公記』によると、義元は乗っていた朱塗りの輿を捨て、300騎ほどに守られて逃げようとしたが、織田方の激しい波状攻撃に二度三度とさらされるうち、次第に供回りが削られ、最後には50騎ほどになってしまう。

 そこへ織田方の兵が攻めかかり、まず服部春安という武士が義元を討ち取ろうとするが逆に膝を斬られて倒され、次には毛利良勝という者が義元を斬り伏せて首を取る。永禄3(1560)年5月19日、午後2時ごろのことであった。

 桶狭間の戦いでは今川義元はもちろん今川家の有力武将のほとんどが討ち取られているが、これもあまり兵力の差がなかったことの証左になるかもしれない。

 以下、今川家重臣で討ち取られた武将は、松井宗信(遠江、二俣城主)、飯尾垂連(のりつら、遠江、曳馬城主)、蒲原氏徳(駿河、蒲原城主)、由比正信(駿河、川入城主)、由比光教(駿河、由比城主)、久野元宗(駿河、久野城主)、三浦義就(駿河、旗頭)、一宮宗是(駿河、旗頭)、庵原元政(駿河、庵原城主。一説には生き残り今川氏真を掛川城で最後まで守り抜いたとも言われている)となっている(※2)。また、井伊直盛(後に徳川四天王の一人、井伊直政を出した井伊家の国人領主)も織田方に追い詰められて自刃し、井伊家家臣16名やほとんどの郎党衆500(一説には2000)も共に討ち死にし、ほぼ全滅している。

 一方、徳川家康(松平元康)は、桶狭間の戦いの前、戦略的に大高城へ兵糧を入れた後、鵜殿氏とともに丸根砦を攻略した。その後、鵜殿氏と交替で大高城の守りに入るが、義元が討たれた後、永禄3(1560)年5月20日に三河国大樹寺を経て今川方の兵が引くのを待ち、5月23日、岡崎城に帰還している。その後、義元からもらった「元」の字を捨てて家康に改めた。

 また、鳴海城に入っていた岡部元信は、桶狭間の戦い後も城を守り、織田方に奪われた今川義元の首と引き替えに開城すると申し送り、見事に首を奪還している。元信はその後、武田信玄に仕え、勝頼の代には遠江国の高天神城の守将となって最期を迎えた。

 織田信長は、桶狭間の戦いの直後に今川義元の葬儀を盛大に執り行って奉ったという。そして岡部元信に僧侶をつけて今川義元の首を息子の今川氏真へ届けさせた。こうした織田信長の行動と戦後処理は、桶狭間の戦いでの戦勝と同時に彼の評価をさらに高めたようだ(※3)。

 桶狭間の戦いの場所はどこだったのだろうか。愛知県の名古屋市緑区と豊明(とよあけ)市にまたがる地域とされているが、今川義元が討ち死にした場所は特定されていない。

 名古屋市緑区の桶狭間古戦場公園とする説と、中京競馬場に近い豊明市の桶狭間古戦場跡とする説があるが、地元では一時、論争も起きた。2018年には今川義元が奉納した桶の年代測定も行われたが決着は付かず、今では両地元の有志がNPO法人を設立し、町おこしで協力しているようだ。

※1:小和田哲男、「戦国の論理と武将の心理」、The Annual Report of Educational Psychology in Japan, Vol.49, 13-16, 2010

※2:本郷和人、『戦国武将の選択』、産経新聞出版、2015

※3:鈴川博、「甲斐守護武田信玄晴信の中伊那・下伊那支配」、飯田氏美術博物館研究紀要、第23巻、21-52、2013

科学ジャーナリスト

いしだまさひこ:北海道出身。法政大学経済学部卒業、横浜市立大学大学院医学研究科修士課程修了、医科学修士。近代映画社から独立後、醍醐味エンタープライズ(出版企画制作)設立。紙媒体の商業誌編集長などを経験。日本医学ジャーナリスト協会会員。水中遺物探索学会主宰。サイエンス系の単著に『恐竜大接近』(監修:小畠郁生)『遺伝子・ゲノム最前線』(監修:和田昭允)『ロボット・テクノロジーよ、日本を救え』など、人文系単著に『季節の実用語』『沈船「お宝」伝説』『おんな城主 井伊直虎』など、出版プロデュースに『料理の鉄人』『お化け屋敷で科学する!』『新型タバコの本当のリスク』(著者:田淵貴大)などがある。

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